本で鶴の字を山岳名としてあるのには、九州で有名な鶴見山をはじめ、鶴峠、鶴巻山、鶴根山、鶴飼山、鶴ノ子山、鶴谷山、鶴城山、鶴掛山、鶴木山などがあるが、鶴ヶ岳の名が最も雄大で高潔で響きがよいように思う、平岳は名称としては感心もしないが、頂上が平坦であるから名づけられたらしく想像される、いずれにしても中越の傑物らしい気持がしてならない、自分はその折にはヒラダケと呼ぶのやら、またはタイラダケと称するのやも知らなかった。
 それから俗事に妨げられて二、三年を過ぎた、間もなく山岳会が設立された、自分は二度ほどこの山の登攀を思い立って、その登山口と想わるる北魚沼郡の湯谷《ゆのたに》村や、南魚沼郡の六日町方面や、上州利根郡の藤原村へ照会して見たが要領を得ない、明治四十一年の五月に、東京から清水峠を踰《こ》えて帰国した時に、藤原村の入口の湯檜曾《ゆびそ》温泉でいろいろ聞いて見たが、平岳だの鶴ヶ岳だのという山は聞いた事がないというている、その中に魚沼地方の人々が主となって銀山平(後に記す)の開墾《かいこん》事業を起されて、自分の知己であって隣村である高橋九郎氏が、高橋農場を建設された、農場の主任は白井又八というて自分と主従のような関係のあった者である、高橋氏と白井から銀山平方面の山岳に登るように、面会の時や便の折に毎々勧告される、そこで大平晟氏と銀山平へ見物に行くことになった、自分は平岳に登るのが主眼で、大平氏は燧岳《ひうちがたけ》に登って日光へ抜けらるる計画で、時間の都合で同行もしようと約束して、準備までしたが、出発の四、五日前になって自分は差支が出来て中止することとなった、已《や》むを得ぬから大平氏に依頼して、平岳に関係した一切の事を聞き合してもらうことにした、大平氏が帰宅されて御土産話しをされたので、はじめてこの山の大体の見当が付いた、称呼をヒラガタケといって鶴ヶ岳と別物であること、只見川の支流の北又川の支流である中又川を登って、高橋農場から二夜以上の野宿をして往復することが出来て、案内者は大平氏が駒ヶ岳(魚沼)の案内をさした桜井林治という者で、大湯温泉で容易に雇い入るる事が出来て、山の頂上は苗場山《なえばさん》式に広闊《こうかつ》であるということが分明になった、そうして大平氏は初めは平ヶ岳に趣味を持たなかったが、案内者の咄《はなし》を聞いてから登攀して見たくなったと附説された、
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