久能に、自分が第一の責任者かのようにしきりに詫びていたが、久能はじっと濁った瞳で天井をみつめていた。すると三ツ木は、久能はこのまま死ぬのじゃないかと気懸りになり、久能、誰かに会いたくないか? お母さんを呼ぼうか? 兄さんに来てもらう? というと、久能は頭を振った。三ツ木は青江の事が舌の先にまで出て来ていながら、久能にそれだけは惨酷なようで訊けなかった。だが久能も青江を思っていた。会いたくはあった。久能達は遺書を書き、ガスを部屋に放出すると、久能に寄ってじっと眼をつむっている青江に較べて、自然にがたがたと慄え出すのをこらえて、久能は息苦しくなった声で、本当をいってくれと哀願し出すと、青江は石のように黙って、かすかに細眼を開いただけだった。久能は、青江め、俺の負けるのを待っているのだな、恐ろしい事だ、この恐ろしい青江の魅力がもう俺のものでなくなって了うのだと思い出すと、自分の敗色が明らかになり、苦しいと叫ぼうとする声が出なくなりかけてい、突然狂気になってガス栓に走り寄ろうとする足が動かなかった‥‥それ以来久能は青江に会わなかった。思い屈して一度訪ねては行ったが大垣に帰ったと聞いて帰って来た。久能は自分をあわれみ、あれほどの青江の強情さは、もう尊敬していいではないかと思って来た。こういう瀕死の場合、久能は青江を信じたまま静かに死を迎えようとしていた。
 併し久能が急に青江に会いたいといい出したのは、彼の生命が取止められたと医師から告げられた朝だった。三ツ木は興奮してとび込んで来、俺は君が死んだら、頭を剃って西国巡礼に出かける気でいたよ、と、あははははと笑うと、久能は棘棘しい表情で、しきりにいらいらしていたが、とうとう青江に電報を打って呉れといった。三ツ木は変だなと思ったが看護婦に電報を打たせにやると、久能は、青江が来たら、僕は絶望だといって呉れと、無愛想にいって顔を伏せた。三ツ木は久能の眼に涙が光っていたのを見、久能はまだ青江に含んでいるのだな、こんな疲れた、灰色の皮膚の下に嫉妬がのたうっているのか、哀れな奴だ、と彼の長く伸びた頬ひげを見ていた。
 翌朝、青江は花束を抱いて病室に現われた。看護婦に案内されて入って来たのを見ると急いで三ツ木は廊下に出た。どうなさったの? 青江の頬は濡れていて、唇が白痴のように開いていた。久能は薄目でそれをみとると、怒りが消え弱い微笑が全身に動き、いつか、母のように想って握った手で手をとられると、頼りたさにうずき、青江の持って来た花に唇を触れた。そこへ三ツ木が這入って来、青江を厳粛そうに手招ぎした。
 久能は自問していた。自分は真実を知ろうとしているのだろうか、それとも真実をこわしているのだろうか、何故、この様なからくりの中に青江をひき入れたのだろうか? 死や真実を徒らにもてあそんでいる自分は何という浅間しい人間だろう? 何も信じないでいられる世界はないのだろうか? そして久能は自分がこうするのは、真底からは青江を愛し、信じたがっているからなのだと思った。
 青江が帰って来た。涙が乾いて視線がひどく遠い処に散っていた。笑い出しそうでもあったその表情は発狂の前徴に似ているかも知れなかった。久能は、帰れ、と青江にいいたい誘惑を感じていた。長い時が流れた。とうとう久能は、僕を安心させてくれ、一言、僕に知らしてください、と青江に説くようにいい始めた。それは思いがけない程青江にとって劇しい責苦であるらしかった。彼女は電気に打たれたようにくずおれると、ベットに倒れかかった。‥‥やはりそうだったのか‥‥久能は重たい石をおろした、或は身体を叩きつけられたような衝動に全身を委していた。
 あたし自分でもすっかり忘れて了いたいと思っていたの、と青江は平静になっているように見える顔をあげていい出した。あの××ホテルの便箋憶えていらっしゃる? あんなものどうして持ちかえったのか知らなかったけど、あなたに見られてぞっとしたわ、あたし千駄木の家を出て、もとの会社にいると、さがし出されるでしょ、だからそこを止めたのよ。そして勤先捜してると、あたしを子供の時知ってた弁護士に会ったの、みちで、青江さんじゃないときかれて、あたし判らないでいると、色々話しかけて来て、あたしの家のことや何かきくの、それであたし答えてる中に、あたしが仕事をみつけてるの知ると、その人事務所を開きたいと思ってるところだといって、××ホテルへ‥‥‥‥
 これが真実をきいているというのか? 久能はめまいを感じ、青江が遠くに、そして恐ろしく魅力なく、知らない女に見え出し、花束の酔わせる匂に夢心地になっていき、これから一体何が始まって来るのだろうかと、おぼろげに心愉しくなっていくようでもあった。



底本:「行動 第二卷 第二號」紀伊国屋出版部
   1934(昭和9)
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊田 三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング