したんです。」は底本では「拒絶したんです」]そういう事件に関しては医者の権限外であるといって、問題の渦中に巻き込まれたくなかったのですね、僕の精神は緊張の結果、ひどく弱っていたので、僕自身もこの問題に深入りしまいと決心したのです、悪い女には却って魅力があるような気がしましてね、彼女が医者に行く前も後も何やら晴々していて、僕に親切にしている、恐らく罪の苛責というものを感じないでいる女の魅力‥‥僕は最初その女を愛していなかったのに、今では夢中になっているのです、と話すと、菊崎は憐れみの眼で久能を見、それは変ですね、あくまでも、非常な例外としては浴場や、トアレットで感染する場合があるそうですが、全然潔癖に通したのでない以上信じられない事ですねと、無遠慮にいったので、久能は再び疑いを新らしくする機会を与えられて、今度こそ青江に白状させないでは置かないと決心し、それに又自分は何故この様に真相を知りたがっているのだろう、大人というものは誰でも自分の知ることに限りがあるのを知っている様子なのにでなければ単に青江が自分を裏切ったのだと信じ切ってしまえば万事が終るではないか、自分では青江に本当の愛を誓わないでいる癖に、青江の行為が例えどの様に汚れていようと、自分にはそれを責める権能も、関心もない筈ではないのか、と反省しながらも、裏切ったばかりでなく、裏切っていることさえひた隠しにしている青江は二重に自分を裏切っているのだと、本能的にわいて来る口惜しさや、他の男の影がちらつく不快さに久能は眼前が昏くなった。その時久能は自分が青江に負けているのをしみじみ感じた。久能が結婚しないよといっても平気でいて、現実の行為の世界でずんずん久能をひきずっていく青江には勝てない、ああ俺はどうしてこんなにうわべの、青江の告白などという言葉ばかりを捜しているのだろう。今だにひたすら青江を信じたい気持が――俺は青江から純粋に愛されていたのだという意識や、記憶を持ちたい感情が、久能の胸の奥に恋々と居坐っていた。そしてそれ等を背景に置くと、青江の、今まで厭わしかった点が、急に眼を射るように輝き、久能を魅して来、到底青江から離れることは出来ないと思わせた。
 菊崎に別れて、久能は古本屋に立寄り、大事にしていた原語の詩集類を僅かな金に代えて売り払った。職に就けないでいる久能は蔵書を医療費にあてていた。それも元より多く
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