ろうとも期待出来ない、(そう漠然と青江を突っぱなすのは久能には変に快よかった。或はそれは既に愛着の現われであったかもしれないが)あなたの親達のすすめている結婚の背後には暗い影も見えないようだし、その男も写真でみたところだけでは僕などよりずっとしっかりしていそうだ、と冷淡に言いながら、久能は自分がひそかに青江が反対に一層彼に頼って来るのを待っているのに気づき、三ツ木の悪魔の言葉がここにもうろついているのが知れ、冷酷ね、あなたはと青江の眼に涙が光り、溢れて来たのを、むしろうずうずして内心にうれしがっていて、頬を親切げにふいてやり、肩を抱いて暗い廊下に出ると、俺はとうとう青江にこのまま遠ざかってしまうのだな、と悪魔の声をききながら、そのまま押すように青江をその部屋に送りとどけた。そして自分の部屋に帰って来て枕にうずくまっていると、突然、体が左右に揺れ出して、そうなると久能は完全な一匹の獣類になって、孤独だ! 孤独だ! と吼えはじめて階段を辷りおり、青江さん! 来て下さい、僕は淋しくて狂い出しそうです、と三時をすぎた静寂の中にうつろな声で獣のようにささやいていた。
 久能は言葉を信じている性質の男だった。本当の嘘も云えない代りに、自分の言葉を最後まで守り通す意志もなかった。併し青江は言葉を信じなかった。相手を傷つけることでもいわないではいられない久能がそのときいった言葉は、結婚しないということだった。青江はその様な言葉の繊弱さを見抜いていて、未知な怖ろしさの中にも、晴れやかさの籠った声で、あたし大垣へ帰らないわ、ここの家にもいられないけど、もう決心がついているのよ、といって、秋の終りの自然の忘涼にくらべ、久能と青江は真夏の野の草いきれのなかにいた。翌年二月に父親が青江を迎えに上京して来る前日、久能にだけ行先を教えて、彼女は姿をかくした。久能は口でははっきり結婚を拒否していたが、遂にはそうせずにはいられなくなりそうだと感じ始めていた。
 春になっていた。併し久能には桜も、新緑もなかった。青空もなかった。彼は二月程前から忌わしい病気に罹っていた。久能はいつものように、もう夕暮に間近い街の前後を窺ってから、その白色の大きな病院にこそこそと這入っていった。逃げるように廊下を小走りして階段を登りかけると、降りて来た青年と頭を見合せ、あ、と思わず叫んで、二人とも立ち竦んだ。相手の男もま
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