立てるので、馬子のセカチは僕等に注意して、さう馬の尻を打つなと云ふ。早くつかれさしては、いよ/\難道にさしかかれば、倒れてしまう恐れがあるからであつた。
難道は降りだ。俗に七曲りと云ふのは、その實、十三曲りも十四曲りもあつて、それがおの/\十間または二十間づつに曲り、何百丈の谷底に落ちて行くのだ。馬上から見あげ、見おろすと、ぞつとして、目も暗んでしまう。親の乳を追うて僕等の馬について來た小馬(三ヶ月)は、或る曲り角で石ころに乗つて倒れ、すんでのことで谷底へころげ込むところであつた。
そんなにしてまでも、ポニイと云ふものは、てく/\と、どこまでも、親馬について來るのだ。日高を旅行すると、大抵の乗馬には、女馬なら、小馬が必らずついて來る。當歳から三歳まではさうだ。それがなか/\面白いもので、どこを來てゐるか知らんと思つて、時々乗り手がふり返つて見る。すると、相變らずてく/\やつて來るのだ。
山上の萩の露
僕等が猿留村に着したのは午後二時頃であつたが、驛遞ではつぎ馬がない、且、あすも十一時頃でなければ用意が出來ないと云ふのだ。で、そこにとまるのも胸くそ惡くなり、勇氣を出して、もう一驛さきまで徒歩することにした。然し二里半だと聽いたのが、實際、四里あつたには閉口した。
一里ばかり海岸を行き、それから山道に這入ると、日高の國境を越えて、十勝になる。僕等は足は勞れて來るし、日暮れには近くなるし。薄暗い低林の間の、アイノが毒矢にぬるブシ(とりかぶと)が立ち並んだ道路に進み、屡々小川を渡る度毎に、おやぢが出はしまいかと心配した。
僕は樺太の山奧に入る時、熊よけに、汽船から借りて來た汽笛代用の喇叭《らつぱ》を吹いたが、さういふ用意がないので、僕は下手な調子で銅羅《どら》聲を張りあげ、清元やら、長唄やら、常磐津から、新内やら、都々逸やらのお浚ひをして歩いた。その功徳によつてか、幸ひ、おやぢの黒い影も白い影も現はれなかつた。
然し猿留山道の七曲りに似た九折道を登る時などは、唄も盡き、聲もよわり、足も亦疲れ切つた。これを越えれば、もう直ぐだらうといふを力にして、やつとのことで山の背まで達し、それから勾配のゆるい下り坂になつたが、今度はまた非常に喉が渇き、からだ中びしよ濡れの汗が氣になる樣になつた。
然し道に澤山生えてゐる小萩が、葉毎/\に露を帶びてゐるのは、それを
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