だ肩あげも取れないうちに、箱根のある旅館の助平おやじから大金を取って、水あげをさせたということだ。小癪な娘だけにだんだん焼けッ腹になって来るのは当り前だろう。
「あの青木の野郎、今度来たら十分言ってやらにゃア」と、お貞が受けて、「借金が返せないもんだから、うちへ来ないで、こそこそとほかでぬすみ喰いをしゃアがる!」
子供はふたりとも吹き出した。
「吉弥も吉弥だ、あんな奴にくッついておらなくとも、お客さんはどこにでもある。――あんな奴があって、うちの商売の邪魔をするのだ」
そう思うのも実際だ。僕が来てからの様子を見ていても、料理の仕出しと言ってもそうあるようには見えないし、あがるお客はなおさら少い。たよりとしていたのは、吉弥独りのかせぎ高だ。毎日夕がたになると、家族は囲炉裡《いろり》を取りまいて、吉弥の口のかかって来るのを今か今かと待っている。
やがて吉弥はのッそり帰って来た。
「何をぐずぐずしておったんだ? すぐお座敷だよ」お貞はその割り合いに強くは当らなかった。
「そう」吉弥は平気で返事をして、炉のそばに坐って、「いらっしゃい」僕に挨拶をしたが、まるめて持っていた手拭《てぬぐい》としゃぼんとをどこに置こうかとまごついていたが、それを炉のふちへ置いて、
「一本、どうか」と、僕のそばの巻煙草入れに手を出した。
その時、吉弥は僕のうしろに坐っているお君の鋭い目に出くわしたらしい。急に険相な顔になって、「何だい、そのにらみざまは? 蛙《かえる》じゃアあるめいし。手拭をここへ置くのがいけなけりゃア、勝手に自分でどこへでもかけるがいい! いけ好かない小まッちゃくれだ!」
「一体どうしたんだ」と、僕がちょっと吉弥に当って、お君をふり返ると、お君は黙って下を向いた。
「あたいがいるのがいけなけりゃア、いつからでも出すがいい。へん、去年身投げをした芸者のような意気地《いくじ》なしではない。死んだッて、化けて出てやらア。高がお客商売の料理屋だ、今に見るがいい」と、吉弥はしきりに力んでいた。
僕は何にも知らない風で、かの女の口をつぐませると、それまでわくわくしていたお貞が口を出し、
「まア、えい。まア、えい。――子供同士の喧嘩《けんか》です、先生、どうぞ悪《あ》しからず。――さア、吉弥、支度《したく》、支度」
「厭だが、行ってやろうか」と、吉弥はしぶしぶ立って、大きな姿見のある化粧部屋へ行った。
七
「お座敷は先生だッたの、ねえ、――あんなことを言って、どうも失礼」と、吉弥は三味線をもってはいって来た。
「………」僕はさッきから独りで、どういう風に油をしぼってやろうかと、しきりに考えていたのだが、やさしい声をして、やさしい様子で来られては、今まで胸にこみ合っていたさまざまの忿怒《ふんぬ》のかたちは、太陽の光に当った霧と消えてしまった。
「お酌」と出した徳利から、心では受けまいと定《き》めていた酒を受けた。しかし、まだ何となく胸のもつれが取れないので、ろくに話をしなかった。
「おこってるの?」
「………」
「ええ、おこッているの?」
「………」
「あたい知らないわ!」
吉弥はかっと顔を赤くして、立ちあがった。そのまま下へ行って、僕のおこっていることを言い、湯屋で見たことを妬《や》いているのだということがもしも下のものらに分ったら、僕一生の男を下げるのだと心配したから、
「おい、おい!」と命令するような強い声を出した。それでも、かの女は行ってしまったが、まさかそのまま来ないことはあるまいと思ったから、独りで酌をしながら待っていた。はたして銚子を持ってすぐ再びやって来た。向うがつんとしているので、今度は僕から物を言いたくなった。
「どうだい、僕もまた一つ蕎麦《そば》をふるまってもらおうじゃアないか?」
「あら、もう、知ってるの?」
「へん、そんなことを知らないような馬鹿じゃアねい。役者になりたいからよろしく頼むなんどと白《しら》ばッくれて、一方じゃア、どん百姓か、肥取《こえと》りかも知れねいへッぽこ旦《だん》つくと乳くり合っていやアがる」
「そりゃア、あんまり可哀そうだ、わ。あの人がいなけりゃア、東京へ帰れないじゃアないか、ね」
「どうして、さ?」
「じゃア、誰れが受け出してくれるの? あなた?」
「おれのはお前が女優になってからの問題だ。受け出すのは、心配なくおッ母さんが来て始末をつけると言ったじゃアないか?」
「だから、おッ母さんが来ると言ってるのでしょう――」
それで分ったが、おッ母さんの来るというのは、女優問題でわざわざ来るのではなく、青木という男に受け出されるそのかけ合いのためであったのだ。
「あんな者に受け出されて、やッぱし、こんなしみッたれた田舎《いなか》にくすぶってしまうのだろうよ」
「おおきにお世話だ、あなたよりもさきに東京へ帰りますよ」
「帰って、どうするんだ?」
「お嫁に行きますとも」
「誰れが貴さまのような者を貰ってくれよう?」
「憚《はばか》りながら、これでも衣物《きもの》をこさえて待っていてくれるものがありますよ」
「それじゃア、青木が可哀そうだ」
「可哀そうも何もあったもんか? あいつもこれまでに大分金をつぎ込んだ男だから、なかなか思い切れるはずはない、さ」
「どんなに馬鹿だッて、そんなのろまな男はなかろうよ」
「どうせ、おかみさんがやかましくッて、あたいをここには置いとけないのだから、たまに向うから東京へ出て来るだけのことだろう、さ」
男はそんなものと高をくくられているのかと思えば、僕はまた厭気がさして来た。
「お嫁に行って、妾になって、まだその上に女優を欲張ろうとは、お前も随分ふてい奴、さ」
「そうとも、さ、こんなにふとったからだだもの、かせげるだけかせぐん、さ、ね」
「じゃア、もう、僕は手を引こう」と、僕は坐り直した。「青木が呼びに来るだろうから、下へ行け」
「あの人は今晩来ないことになったの――そんなに言わないで、さ、あなた」と、吉弥はあまえるようにもたれかかって、「今言ったことはうそ、みんなうそ。決心してイるんだから、役者にして頂戴よ。おッ母さんだッて、あたいから言えば、承知するに定《き》まってる、わ」
僕は、女優問題さえ忘れれば、恨みもつらみもなかったのだから、こうやって飲んでいるのは悪くもなかった。
吉弥はまた早くこの厭な井筒屋を抜けて、自由の身になりたいのであった。何んでも早く青木から身受けの金を出させようと運動しているらしく、先刻もまた青木の言いなり放題になって、その代りに何かの手筈《てはず》を定《き》めて来たものと見えた。おッ母さんから一筆《ひとふで》青木に当てた依頼状さえあれば、あすにも楽な身になれるというので、僕は思いも寄らない偽筆を頼まれた。
八
青木というのは、来遊の外国人を当て込んで、箱根や熱海《あたみ》に古道具屋の店を開き、手広く商売が出来ていたものだが、全然無筆な男だから、人の借金証書にめくら判を押したため、ほとんど破産の状態に落ち入ったが、このごろでは多少回復がついて来たらしかった。今の細君というのは、やッぱり、井筒屋の芸者であったのを引かしたのだ。二十歳《はたち》の娘をかしらにすでに三人の子持ちだ。はじめて家を持った時、などは、井筒屋のお貞(その時は、まだお貞の亭主《ていしゅ》が生きていて、それが井筒屋の主人であった)の思いやりで、台どころ道具などを初め、所帯を持つに必要な物はほとんどすべて揃《そろ》えてもらい、飯の炊《た》き方まで手を取らないまでにして世話してもらったのであるが、月日の経《た》つに従い、この新夫婦はその恩義を忘れたかのように疎《うと》くなった。お貞は、今に至るまでも、このことを言い出しては、軽蔑《けいべつ》と悪口との種にしているが、この一、二年来不景気の店へ近ごろ最もしげしげ来るお客は青木であったから、陰で悪く言うものの、面と向っては、進まないながらも、十分のお世辞をふり撤《ま》いていた。
青木は井筒屋の米櫃《こめびつ》でもあったし、また吉弥の旦那をもって得々としていたのである。しかしその実、苦しい工面をしていたということは、僕が当地へ初めて着した時尋ねて行った寺の住職から聴くことが出来た。
住職のことはこの話にそう編み込む必要がないが、とにかく、かれは僕の室へよく遊びに来た、僕もよく遊びに行った。酔って来ると、随分面白い坊主で、いろんなことをしゃべり出す。それとなく、吉弥の評判を聴くと、色が黒いので、土地の人はかの女を「おからす芸者」ということを僕に言って聴かせたことがある。これを聴かされた日、僕は、帰って来てから吉弥にもっと顔をみがくように忠告した。かの女の黒いのはむしろ無精《ぶしょう》だからであると僕には思われた。
「磨《みが》いて見せるほどあたいが打ち込む男は、この国府津にゃアいないよ」とは、かの女がその時の返事であった。
住職の知り合いで、ある小銀行の役員をつとめている田島というものも、また、吉弥に熱くなっていることは、住職から聴いて知っていたが、この方に対しては別に心配するほどのこともないと見たから、僕も眼中に置かなかった。吉弥を通じて僕に会いたいということづてもあったが、僕は面倒だと思ってはねつけておいた。かつどうも当地にとどまる女ではないし、また帰ったら女優になると言っているから、女房にしようなどいう野心を起して、つまらない金は使わない方がよかろうと、かれに忠告してやれと僕は住職に勧めたことがある。一方にはそんなしおらしいことを言って、また一方では偽筆を書く、僕のその時の矛盾は――あとから見れば――はなはだしいもので、もう、ほとんど全く目が暗んでいたのだろう。
吉弥は、自分に取っては、最も多くの世話を受けている青木をも、あたまから見くびっていたのだから、平気で僕の筆を利用しようとした。それをもって綺麗に井筒屋を出る手つづきをさせようとしたのは翌朝のことであるが、そう早くは成功しなかった。
僕が昼飯を喰っている時、吉弥は僕のところへやって来て、飯の給仕をしてくれながら太い指にきらめいている宝石入りの指輪を嬉《うれ》しそうにいじくっていた。
「どうしたんだ?」僕はいぶかった。
「人質に取ってやったの」
「おッ母さんの手紙がばれたんだろう――?」
「いいえ、ゆうべこれ(と、鼻をゆびさしながら)に負けたんで、現金がないと、さ」
「馬鹿野郎! だまされていやアがる」僕は僕のことでも頼んで出来なかったものを責めるような気になっていた。
「本統よ、そんなにうそがつける男じゃアないの」
「のろけていやがれ、おめえはよッぽどうすのろ芸者だ。――どれ、見せろ」
「よッぽどするでしょう?」抜いて出すのを受け取って見たが、鍍金《めっき》らしいので、
「馬鹿!」僕はまた叱《しか》りつけたようにそれをほうり出した。
「しどい、わ」吉弥は真ッかになって、恨めしそうにそれを拾った。
「そんな物で身受けが出来る代物《しろもの》なら、お前はそこらあたりの達磨《だるま》も同前だア」
「どうせ達磨でも、憚《はばか》りながら、あなたのお世話にゃアなりませんよ――じゃア、これはどう?」帯の間から小判を一つ出した。「これなら、指輪に打たしても立派でしょう?」
「どれ」と、ひッたくりかけたら、
「いやよ」と、引ッ込めて、「あなたに見せたッて、けちをつけるだけ損だ」
「じゃア、勝手にしゃがアれ」
僕は飯をすまし、茶をつがせて、箸《はし》をしまった。吉弥はのびをしながら、
「ああ、ああ、もう、死んじまいたくなった。いつおッ母さんがお金を持って来てくれるのか、もう一度手紙を出そうかしら?」
「いい旦那がついているのに、持って来るはずはない、さ」
「でも、何とやらで、いつはずれるか知れたものじゃアない」
「それがいけなけりゃア、また例のお若い人に就《つ》くがいいや、ね」
「それがいけなけりゃア――あなた?」
「馬鹿ア言え。そんな腑《ふ》ぬけな田村先生じゃアねえ。――おれは受け合っておくが、お前のように気の多い奴は、結局ここを去るこ
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