人の前でのろけを書きゃアがった、な」
「のろけじゃアないことよ、御無沙汰《ごぶさた》しているから、お詫《わ》びの手紙だ、わ」
「『母より承わり、うれしく』だ――当て名を書け、当て名を! 隠したッて知れてらア」
「じゃア、書く、わ」笑いながら、「うわ封を書いて頂戴よ」と言って、かの女の筆を入れたのは「野沢さま」というのである。
 僕はその封筒のおもてに浅草区千束町○丁目○番地渡瀬(これは吉弥の家)方野沢様と記《しる》してやった。かの女はその人を子供の時から知ってると言いながら、その呼び名とその宿所とを知っていないのであった。
「………」さきの偽筆は自分のために利益と見えたことだが、今のは自分の不利益になる事件が含んでいる代筆だ。僕は、何事もなるようになれというつもりで、苦しい胸を押えていた。が、表面では、そう沈んだようには見せたくなかったので、からかい半分に、「区役所が一番恋しいだろう?」
「いいえ」吉弥はにッこりしたが、口を歪めて、「あたい、やッぱし青木さんが一番可愛い、わ――実があって――長く世話をかけたんだもの」
「じゃア、僕はどうなるんだ?」
「これからは、あなたの」と、吉弥は僕の寝ころんでいる胸の上に自分の肩までもからだをもたせかけて、頸を一音ずつに動かしながら、「め――か――け」
 十二時まで、僕らはぐずついていたら、お貞が出て来て、もう、時間だから、引きあげてくれろという頼みであった。僕は、立ちあがると、あたまがぐらぐらッとして、足がひょろついた。
 あぶないと思ったからでもあろう、吉弥が僕を僕の門口《かどくち》まで送って来た。月のいい地上の空に、僕らが二つの影を投げていたのをおぼえている。

     一九

 返事を促しておいた劇場の友人から、一座のおもな一人には話しておいた、その他のことは僕の帰京後にしようと、ようやく言ってよこした。これを吉弥に報告すると、かの女はきまりが悪いと言う。なぜかとよくよく聴いて見ると、もしその一座にはいれるとしたら、数年前に東京で買われたなじみが、その時とは違って、そこの立派な立て女形《おやま》になっているということが分った。よくよく興ざめて来る芸者ではある。
 それに、最も肝心な先輩の返事が全く面白くなかった。女優に仕立てるには年が行き過ぎているし、一度芸者をしたものには、到底、舞台上の練習の困難に堪える気力がなかろう。むしろ断然関係を断つ方が僕のためだという忠告だ。僕の心の奥が絶えず語っていたところと寸分も違わない。
 しかし、僕も男だ、体面上、一度約束したことを破る気はない。もう、人を頼まず、自分が自分でその場に全責任をしょうよりほかはない。
 こうなると、自分に最も手近な家から探ぐって行かなければならない。で、僕は妻に手紙を書き、家の物を質に入れて某《なにがし》の金子《きんす》を調達せよと言ってやった。質入れをすると言っても、僕自身のはすでに大抵行っているのだから、目的は妻の衣服やその附属品であるので、足りないところは僕の父の家へ行って出してもらえと附け加えた。
 妻はこうなるのを予想していたらしい。実は、僕、吉弥のお袋が来た時、早手まわしであったが、僕の東京住宅の近処にいる友人に当てて、金子の調達を頼んだことがある。無効であった上に、友人は大抵のことを妻に注意した。妻は、また、これを全く知らないでいたのは迂濶《うかつ》だと言われるのが嫌《いや》さに、まずもって僕の父に内通し、その上、血眼《ちまなこ》になってかけずりまわっていたかして、電車道を歩いていた時、子を抱いたまま、すんでのことで引き倒されかけた。
 その上の男の子が、どこからか、「馬鹿馬鹿しいわい」という言葉をおぼえて来て、そのころ、しきりにそれを繰り返していたそうだが、妻は、それが今回のことの前兆であったと、御幣《ごへい》をかついでいた。それももっともだというのは、僕が東京を出発する以前に、ようやく出版が出来た「デカダン論」のために、僕の生活費の一部を供する英語教師の職をやめられかかっていたのだ。
 父からは厳格ないましめを書いてよこした。すぐさま帰って来いと言うので、僕の最後の手紙はそれと行き違いになったと見え、今度は妻が、父と相談の上、本人で出て来た。
 僕が、あたまが重いので、散歩でもしようと玄関を出ると、向うから、車の上に乳飲《ちの》み児《ご》を抱いて妻がやって来た。顔の痩《や》せが目に立って、色が真ッ青だ。僕は、これまでのことが一時に胸に浮んで、ぎょッとせざるを得なかった。
「馬鹿ッ!――馬鹿野郎!」車を下りる妻の権幕は非常なものであった。僕が妻からこんな下劣な侮辱の言を聴くのは、これが初めてであった。
「………」よッぽどのぼせているのだろうから、荒立ててはよくないと思って、僕はおだやかに二階へつれ
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