配していた様子、吉弥は存外平気でいる。お貞はまず口を切った。
「先生、とんだことになりまして、なア」と、あくまで事情を知らないふりで、「あなたさまに御心配かけては済みませんけれど――」
「なアに、こうなったら、私が引き受けてやりまさア」
「済まないこッてございますけれど――吉弥が悪いのだ、向うをおこらさないで、そッとしておけばいいのに」
「向うからほじくり出すのだから、しようがない、わ」
「もう、出来たことは何と言っても取り返しのつくはずがない。すッかり私におまかせ下さい」と、僕は男らしく断言した。
「しかし」と、主人が堅苦しい調子で、「世間へ、あの人の物と世間へ知れてしまっては、芸者が売れませんから、なア――また出来ないようなことがあっては、こちらが困るばかりで――」
「そりゃア、もう、大丈夫ですよ」と、僕は軽く答えたが、あまりに人を見くびった言い分を不快に感じた。
 しかし、割合いにすれていない主人のことであるし、またその無愛嬌《ぶあいきょう》なしがみッ面《つら》は持ち前のことであるから、思ったままを言ったのだろうと推察してやれば、僕も多少正直な心になった。
「どうともして」とは、実際、何とか工面をしなければならないのだ、「必らず御心配はかけませんが、青木さんの方が成り立っていても、今月一杯はかかるんでしたから――そこいらの日限は、どうか、よろしく」と、念を押した。
「それはもちろんのことです」主人はちょっとにこついて見せたが、また持ち前のしがみッ面に返って、「青木があの時|揃《そろ》えて出してしまえばよかったに、なア」と、お貞の方をふり向いた。
「あいつがしみッたれだから、さ」お貞は煙管をはたいた。
「一杯飲もうか?」もう分ったろうと思ったから、僕は、吉弥を促がし、二階へあがった。
「泣いたんでびッくりしたでしょう?」吉弥は僕と相向って坐った時にこう言った。
「なアに」僕は吉弥の誇張的な態度をわざとらしく思っていたので、澄まして答えた。「お前の目玉に水ッ気が少しもなかったよ」
 硯《すずり》と巻き紙とを呼んで、僕は飲みながら、先輩の某氏に当てて、金の工面を頼む手紙を書いた。その手紙には、一芸者があって、年は二十七――顔立ちは良くないし、三味線もうまくないが、踊りが得意(これは吉弥の言った通りを信じて言うのだ)――普通の婦人とは違って丈がずッと高く――目と口とが大きいので、仕込みさえすれば、女優として申し分のない女だ。かつ、その子供が一人ある、また妹がある。それらを引き入れることが出来る望みがある。失敗はあらかじめ覚悟の上でつれて帰りたいから、それに必要な百五十円ばかりを一時立て換えてもらいたいと頼んだ。その全体において、さきに劇場にいる友人に紹介した時よりも熱がさめていたので、調子が冷静であった。無論、友人に対する考えと先輩に対する心持ちとは、また、違っていたのだ。ただ、心配なのは承知してくれるか、どうかということだ。
「もう、書けたの?」吉弥は待ちどおしそうに尋ねた。
「ああ」と、僕の返事には力がなかった。
 僕は寝ころんでがぶかぶ三、四杯を独りで傾けた。
「あたいも書こう」と、吉弥が今度は筆を取り、僕の投げ出した足を尻に敷いて、肘《ひじ》をつき、しきりに何か書き出した。
 僕は手をたたいて人を呼び、まだ起きているだろうからと、印紙を買って投函《とうかん》することを命じた。一つは、そこの家族を安心させるためであったが、もし出来ない返事が来たらどうしようと、心は息詰まるように苦しかった。
「………」吉弥もまた短い手紙を書きあげたのを、自慢そうだ――
「どれ見せろ」と、僕は取って見た。
 下手くそな仮名《かな》文字だが、やッとその意だけは通じている。さきに僕がかの女のお袋に尋ねて、吉弥は小学校を出たかというと、学校へはやらなかったので、わずかに新聞を拾い読みすることが出来るくらいで、役者になってもせりふの覚えが悪かろうと答える。すると吉弥がそばから、
「まさか、絶句はしない、わ」と、答えたのを思い出した。
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「しばらく御ぶさた致し候。まずはおかわりもなく、御つとめなされ候よし、かげながら祝しおり候。さてとや、このほどよりの御はなし、母よりうけたまわり、うれしく存じ候」
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 てッきり、例の区役所先生に送るのだと分った。「うれしく」とは、一緒になることが定まっているのだろう。もっとも、僕はその人が承知して女優になるのを許せば、それでかまわないとも考えていたのだ。
 そのつづき、――
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「ちかきうちに私も帰り申し候につき、くわしきことはお目もじの上申しあげそうろう。かしく。きくより」
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 菊とは吉弥の本名だ。さすが、当て名は書いてない。
「馬鹿野郎!
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