んでいたり――ばかりするのであるから、足がひょろひょろしている。涼しく吹いて来る風に、僕はからだが浮きそうであった。
でこぼこした道を踏みしめ、踏みしめ、僕は歩いていたが、街道を通る人かげがすべて僕の敵であるかのように思われた。月光に投げ出した僕の影法師も、僕には何だかおそろしかった。
なるべく通行者に近よらないようにして、僕はまず例のうなぎ屋の前を通った。三味の音や歌声は聴えるが、吉弥のではない。いないのか知らんと、ほかに当てのある近所の料理屋の前を二、三軒通って見た。そこいらにもいそうもないような気がした。
青木の本陣とも言うべきは、二、三町さきの里見亭《さとみてい》だ。かれは、吉弥との関係上初めは井筒屋のお得意であったが、借金が嵩《かさ》んで敷居が高くなるに従って、かのうなぎ屋の常客となった。しかしそこのおかみさんが吉弥を田島に取り持ったことが分ってから、また里見亭に転じたのだ。そこでしくじったら、また、もう少しかけ隔った別な店へ移るのだろう。はたから見ると、だんだん退却して行くありさまだ。吉弥の話したことによると、青木は、かれ自身が、
「無学な上に年を取っているから、若いものに馬鹿にされたり、また、自分が一生懸命になっている女にまでも謀叛《むほん》されたりするのだ」と、男泣きに泣いたそうだ。
ある時などかれは、思いものの心を試《た》めそうとして、吉弥に、その同じ商売子で、ずッと年若なのを――吉弥の合い方に呼んでいたから――取り持って見よと命じた。吉弥は平気で命令通り向うの子を承知させ、青木をかげへ呼んでその旨を報告した。
「姉さんさえ承知ならッて――大丈夫よ」
「………」青木は、しかしそう聴いてかえってこれを残念がり、実は本意でない、お前はそんなことをされても何ともないほどの薄情女かと、立っている吉弥の肩をしッかりいだき締めて、力一杯の誠意を見せようとしたこともあるそうだ。思いやると、この放蕩《ほうとう》おやじでも実があって、可哀そうだ。吉弥こそそんな――馬鹿馬鹿しい手段だが――熱のある情けにも感じ得ない無神経者――不実者――。
こういうことを考えながら、僕もまたその無神経者――不実者――を追って、里見亭の前へ来た。いつも不景気な家だが、相変らずひッそりしている。いそうにもない。しかしまたこッそり乳くり合っているのかも知れないと思えば、急に僕の血は逆上して、あたまが燃え出すように熱して来た。
僕は、数丈のうわばみがぺろぺろ赤い舌を出し、この家のうちを狙《ねら》って巻きつくかのような思いをもって、裏手へまわった。
裏手は田圃《たんぼ》である。ずッと遠くまで並び立った稲の穂は、風に靡《なび》いてきらきら光っている。僕は涼風《すずかぜ》のごとく軽くなり、月光のごとく形なく、里見亭の裏二階へ忍んで行きたかった。しかし、板壁に映った自分の黒い影が、どうも、邪魔になってたまらない。
その影を取り去ってしまおうとするかのように、僕はこわごわ一まわりして、また街道へ出た。
もとの道を自分の家の方へ歩んで行くと、暗いところがあったり、明るいところがあったり、ランプのあかりがさしたり、電燈の光が照らしたり――その明暗|幽照《ゆうしょう》にまでも道のでこぼこが出来て――ちらつく眼鏡越《めがねご》しの近眼の目さきや、あぶなッかしい足もとから、全く別な世界が開らけた。
戸々《ここ》に立ち働いている黒い影は地獄の兵卒のごとく、――戸々の店さきに一様に黒く並んでるかな物、荒物、野菜などは鬼の持ち物、喰い物のごとく、――僕はいつの間に墓場、黄泉《よみじ》の台どころを嗅ぎ当てていたのかと不思議に思った。
たまたま、鼻唄《はなうた》を歌って通るものに会うと、その声からして死んだものらの腐った肉のにおいが聴かれるようだ。
僕は、――たとえば、伊邪那岐《いざなぎ》の尊《みこと》となって――死人のにおいがする薄暗い地獄の勝手口まで、女を追っているような気がして、家に帰った。
時計を見ると、もう、十時半だ。しかし、まだ暑いので、褥《とこ》を取る気にはならない。仰向けに倒れて力抜けがした全身をぐッたり、その手足を延ばした。
そこへ何物か表から飛んで来て、裏窓の壁に当ってはね返り、ごろごろとはしご段を転げ落ちた。迷い鳥にしてはあまりに無謀過ぎ、あまりに重みがあり過ぎたようだ。
ぎょッとしたが、僕はすぐおもて窓をあけ、
「………」誰れだ? と、いつものような大きな声を出そうとしたら、下の方から、
「静かに静かに」と、声ではなく、ただ制する手ぶりをした女が見える。吉弥だ。
僕はすぐ二階をおりて外へ出た。
「………」まだ物を言わなかった。
「びッくりして?」まず、平生通りの調子でこだわりのない声を出したかの女の酔った様子が、なよなよした優し
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