来なかった。昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。
そのまたあくる日も、日が暮れるまで待っていたが、来なかった。もうお座敷に行ったろうからだめだと、――そして、井筒屋ははやらないが、井筒屋の独り芸者は外へ出てはやりッ子なんだから――あきらめて、書見でもしようと、半分以上は読み終ってあるメレジコウスキの小説「先駆者」を手に取った。国府津へ落ちついた当座は、面白半分一気に読みつづけて、そこまでは進んだが、僕の気が浮かれ出してからは、ほとんど全くこれを忘れていたありさまであったのだ。この書の主人公レオナドダヴィンチの独身生活が今さらのごとく懐《なつ》かしくなった。
仰向けに枕して読みかけたが、ふと気がつくと、月が座敷中にその光を広げている。おもてに面した方の窓は障子をはずしてあったので、これは危険だという考えが浮んだ。こないだから持っていた考えだが、――吉弥の関係者は幾人あるか分らないのだから、僕は旅の者だけに、最も多くの恨みを買いやすいのである。いついかなる者から闇打ちを喰らわされるやも知れない。人通りのない時、よしんば出来心にしろ、石でもほうり込まれ、怪我《けが》でもしたらつまらないと思い、起きあがって、窓の障子を填《は》め、左右を少しあけておいて、再び枕の上に仰向けになった。
心が散乱していて一点に集まらないので、眼は開いたページの上に注がれて、何を読んでいるのか締りがなかった。それでもじッと読みつづけていると、新らしい事件は出て来ないで、レオナドと吉弥とが僕の心をかわるがわる通過する。一方は溢《あふ》れるばかりの思想と感情とを古典的な行動に包んだ老独身者のおもかげだ。また一方はその性情が全く非古典的である上に、無神経と思われるまでも心の荒《すさ》んだ売女の姿だ。この二つが、まわり燈籠《どうろう》のように僕の心の目にかわるがわる映って来るのである。
一方は、燃ゆるがごとき新情想を多能多才の器《うつわ》に包み、一生の寂しみをうち籠《こ》めた恋をさえ言い現わし得ないで終ってしまった。その生涯《しょうがい》はいかにも高尚《こうしょう》である、典雅である、純潔である。僕が家庭の面倒や、女の関係や、またそういうことに附随して来るさまざまの苦痛と疲労とを考えれば、いッそのこと、レオナドのように、独身で、高潔に通した方が幸福であったかと、何となく懐かしいような気がする。しかし、また考えると、高潔でよく引き締った半僧生活は、十数年前、すでに、僕は思想と実験との上で通り抜けて来たのだ。そんな初々《ういうい》しいことで、現在の僕が満足出来ないのは分りきっている。僕の神経はレオナドの神経より五倍も十倍も過敏になっているだろう。
こう思うと、また、古寺の墓場のように荒廃した胸の中のにおいがして来て、そのくさい空気に、吉弥の姿が時を得顔に浮んで来る。そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よりは重く、足も常よりは倦怠《けったる》いのをおぼえた。
僕の過敏な心と身体とは荒んでいるのだ。延びているのだ。固まっていた物が融けて行くように、立ち据《す》わる力がなくなって、下へ下へと重みが加わったのだろう。堕落、荒廃、倦怠《けんたい》、疲労――僕は、デカダンという分野に放浪するのを、むしろ僕の誇りとしようという気が起った。
「先駆者」を手から落したら、レオナドはいなくなったが、吉弥ばかりはまだ僕を去らない。
かの女は無努力、無神経の、ただ形ばかりのデカダンだ、僕らの考えとは違って、実力がない、中味がない、本体がない。こう思うと、これもまた厭《いや》になって、僕は半ばからだを起した。そうすると、吉弥もまた僕の心眼を往来しなくなった。
暑くッてたまらないので、むやみにうちわを使っていると、どこからか、
「寛恕《かに》して頂戴よ」という優しい声が聴える。しかしその声の主はまだ来ないのであった。
十六
僕が強く当ったので、向うは焼けになり、
「じゃア勝手にしろ」という気になったのではあるまいか? それなら、僕から行かなければ永劫《えいごう》に会えるはずはない。会わないなら、会わない方が僕に取ってもいいのだが、まさか、向うはそうまで思いきりのいい女でもなかろう。あの馬鹿|女郎《めろう》め、今ごろはどこに何をしているか、一つ探偵《たんてい》をしてやろうと、うちわを持ったまま、散歩がてら、僕はそとへ出た。
井筒屋の店さきには、吉弥が見えなかった。
寝ころんでいたせいもあろう、あたまは重く、目は充血して腫《は》れぼッたい。それに、近ごろは運動もしないで、家にばかり閉《と》じ籠《こも》り、――机に向って考え込んでいたり――それでなければ、酒を飲
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