おかしくないのは僕だけであった。三人に酒を出し、御馳走を供し、その上三人から愚弄《ぐろう》されているのではないかと疑えば、このまま何も言わないで立ち帰ろうかとも思われた。まして、今しがたまでのこの座敷のことを思い浮べれば、何だか胸持《むなも》ちが悪くなって来て、自分の身までが全くきたない毛だ物になっているようだ。香ばしいはずの皿も、僕の鼻へは、かの、特に、吉弥が電球に「やまと」の袋をかぶせた時の薄暗い室の、薄暗い肌のにおいを運んで、われながら箸がつけられなかった。
 僕の考え込んだ心は急に律僧のごとく精進癖にとじ込められて、甘い、楽しい、愉快だなどというあかるい方面から、全く遮断《しゃだん》されたようであった。
 ふと、気がつくと、まだ日が暮れていない。三人は遠慮もなくむしゃむしゃやっている。僕は、また、猪口《ちょく》を口へ運んでいた。
「先生は御酒《ごしゅ》ばかりで」と、お袋は座を取りなして、「ちッともおうなは召しあがらないじゃアございませんか?」
「やがてやりましょう――まア、一杯、どうです、お父さん」と、僕は銚子を向けた。
「もう、先生、よろしゅうございますよ。うちのは二、三杯頂戴すると、あの通りになるんですもの」
「しかし、まだいいでしょう――?」
「いや、もう、この通り」と、おやじは今まで辛抱していた膝ッこを延ばして、ころりと横になり、
「ああ、もう、こういうところで、こうして、お花でも引いていたら申し分はないが――」
「お父さんはじきあれだから困るんです。お花だけでも、先生、私の心配は絶えないんですよ」
「そう言ったッて、ほかにおれの楽しみはないからしようがない、さ」
「あの人もやッぱし来るの?」吉弥がお袋に意味ありげの目を向けた。
「ああ、来るよ」お袋は軽く答えて、僕の方に向き直り、「先生、お父さんはもう帰していいでしょう?」
「そこは御随意になすってもらいましょう。――御窮屈なら、お父さん、おさきへ御飯を持って来させますから」と、僕は手をたたいて飯を呼んだ。
「お父さんは御飯を頂戴したら、すぐお帰りよ」と、お袋はその世話をしてやった。
 僕は女優問題など全く撤回しようかと思ったくらいだし、こんなおやじに話したッて要領を得ないと考えたので、いい加減のところで切りあげておいたのだ。
 飯を独りすませてから、独りで帰って行くのらくらおやじの姿がはしご段から消えると、僕の目に入れ代って映じて来るまぼろしは、吉弥のいわゆる「あの人」であった。ひょッとしたら、これがすなわち区役所の役人で、吉弥の帰京を待っている者――たびたび花を引きに来るので、おやじのお気に入りになっているのかも知れないと推察された。

     一四

 その跡に残ったのはお袋と吉弥と僕との三人であった。
「この方が水入らずでいい、わ」と、お袋は娘の顔を見た。
「青木は来たの?」吉弥はまた母の顔をじッと見つめた。
「ああ、来たよ」
「相談は定まって?」
「うまく行かないの、さ」
「あたい、厭だ、わ!」吉弥は顔いろを変えた。「だから、しッかりやって頂戴と言っておいたじゃアないか?」
「そう無気《むき》になったッてしようがない、わ、ね。おッ母さんだッて、抜かりはないが、向うがまだ険呑《けんのん》がっていりゃア、考えるのも当り前だア、ね」
「何が当り前だア、ね? 初めから引かしてやると言うんで、毎月、毎月|妾《めかけ》のようにされても、なりたけお金を使わせまいと、わずかしか小遣いも貰《もら》わなかったんだろうじゃないか? 人を馬鹿にしゃアがったら、承知アしない、わ。あのがらくた店へ怒鳴《どな》り込んでやる!」
「そう、目の色まで変えないで、さ――先生の前じゃアないか、ね。実は、ね、半分だけあす渡すと言うんだよ」
「半分ぐらいしようがないよ、しみッたれな!」
「それがこうなんだよ、お前を引かせる以上は青木さん独りを思っていてもらいたい――」
「そんなおたんちんじゃアないよ」
「まア、お聴きよ」と、お袋は招ぎ猫を見たような手真似をして娘を制しながら、「そう来るのア向うの順じゃアないか? 何でもはいはいッて言ってりゃいいんだア、ね。――『そりゃア御もっとも』と返事をすると、ね、お前のことについて少し疑わしい点があると――」
「先生にゃア関係がないと言ってあるのに」
「いいえ、この方は大丈夫だが、ね、それ――」
「田島だッて、もう、とっくに手を切ッたって言ってあるよ」
「畜生!」僕は腹の中で叫んだ。
「それが、お前、焼き餅だァ、ね」と、お袋は、実際のところを承知しているのか、いないのか分らないが、そらとぼけたような笑い顔。「つとめをしている間は、お座敷へ出るにゃア、こッちからお客の好き嫌いはしていられないが、そこは気を利《き》かして、さ――ねえ、先生、そうじゃア
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