芸者を馬鹿にしているような句調ながら、まんざら全く浮薄の調子ではなかった。また、出来ることなら吉弥を引きとめて、自分の物にしたいという相談を持ちかけていたらしい。ことに最後の文句などには、深い呼吸が伴っているように聴えた。その「可哀そうじゃアないか」は、青木を出しに田島自身のことを言っていたのだろうが、吉弥は何の思いやりもなく、大変強く当っていた。かの女の浅はかな性質としては、もう、国府津に足を洗うのは――はたしてきょう、あすのことだか、どうだか分りもしないのに――大丈夫と思い込み、跡は野となれ、山となれ的に楽観していて、田島に対しもし未練がありとすれば、ただ行きがけの駄賃として二十円なり、三十円なりの餞別《せんべつ》を貰ってやろうぐらいだろう。と、僕には読めた。
「あたい、ほんとうはお嫁に行くのよ、役者になれるか、どうだか知れやアしないから」などと、かの女は言わないでもいいことをしゃべった。
「どういう人にだ?」
「区役所のお役人よ――衣物《きもの》など拵えて、待っているの」
 僕は隣室の状景を想像する心持ちよりも、むしろこの一言にむかッとした。これがはたして事実なら――して、「お嫁に行くの」はさきに僕も聴いたことがあるから、――現在、吉弥の両親は、その定まった話をもたらしているのだと思われた。あの腹の黒い母親のことであるから、それくらいのたくらみはしかねないだろう。
「どうせ、二、三十円の月給取りだろうが、そんな者の嬶《かか》アになってどうするんだ?」
「お前さんのような借金持ちよりゃアいい、わ」
「馬鹿ァ言え!」
「子供の時から知ってる人で、前からあたいを貰いたいッて言ってたの――月給は四十円でも、お父《とっ》さんの家がいいんだから――」
「家はいいかも知れないが、月給のことはうそだろうぜ――しかしだ、そうなりゃア、おれたちアみな恨みッこなしだ」
「じゃア、そうと定めましょうよ」吉弥はうるさそうに三味線をじゃんじゃん引き出した。
「よせ、よせ!」と、三味線をひッたくったらしい。
「じゃア、もう、帰って頂戴よ、何度も言う通り、貰いがかかっているんだから」
「帰すなら、帰すようにするがいい」
「どうしたらいいのよ?」
「こうするんだ」
「いたいじゃアないか?」
「静かにせい!」この一言の勢いは、抜き身をもってはいって来た強盗ででもあるかのようであった。
「………」僕はいたたまらないで二階を下りて来た。
 しばらくしてはしご段をとんとんおりたものがあるので、下座敷からちょッと顔を出すと、吉弥が便所にはいるうしろ姿が見えた。
 誰れにでもああだろうと思うと、今さらのようにあの粗《あら》い肌が連想され、僕自身の身の毛もよだつと同時に、自分の心がすでに毛深い畜生になっているので、その鋭い鼻がまた別な畜生の尻を嗅《か》いでいたような気がした。

     一三

 田島が帰ると同時に、入れ代って、吉弥の両親がはいって来た。
「明きましたから、どうぞ二階へ」と、今度はここのかみさんから通知して来たので、僕は室を出て、またはしご段をのぼろうとすると、その両親に出くわした。
「お言葉にあまえて」と、お袋は愛相よく、「先生、そろってまいりましたよ」
「さア、おあがんなさい」と、僕はさきに立って二階の奥へ通った。
 おやじというのは、お袋とは違って、人のよさそうな、その代り甲斐性《かいしょう》のなさそうな、いつもふところ手をして遊んでいればいいというような手合いらしい。男ッぷりがいいので、若い時は、お袋の方が惚《ほ》れ込んで、自分のかせぎ高をみんな男の賭博《とばく》の負けにつぎ足しても、なお他の女に取られまい、取られまいと心配したのだろうと思われる。年が寄っても、その習慣が直らないで、やッぱりお袋にばかり世話を焼かせているおやじらしい。下駄《げた》の台を拵えるのが仕事だと聴いてはいるが、それも大して骨折るのではあるまい。(一つ忘れていたが、お袋の来る時には、必らず僕に似合う下駄を持って来ると言っていたが、そのみやげはないようだ)初対面の挨拶も出来かねたようなありさまで、ただ窮屈そうに坐って、申しわけの膝ッこを並べ、尻は少しも落ちついていない様子だ。
「お父さんの風ッたら、ありゃアしない」お袋がこう言うと、
「おりゃアいつも無礼講《ぶれいこう》で通っているから」と、おやじはにやりと赤い歯ぐきまで出して笑った。
「どうか、おくずしなさい。御遠慮なく」と、僕はまず膝をくずした。
「お父さんは」と、お袋はかえって無遠慮に言った、「まァ、下駄職に生れて来たんだよ、毎日、あぐらをかいて、台に向ってればいいんだ」
「そう馬鹿にしたもんじゃアないや、ね」と、おやじはあたまを撫《な》でた。
「御馳走《ごちそう》をたべたら、早く帰る方がいいよ」と、吉弥も笑っている
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