先生に教えていただきたいと言います」
と言い出した。
「面倒くさいから、厭だよ」と僕は答えたが、跡から思うと、その時からすでにその芸者は僕をだまそうとしていたのだ。正ちゃんは無邪気なもので、
「どうせ習らっても、馬鹿だから、分るもんか?」
「なぜ?」
「こないだも大ざらいがあって、義太夫《ぎだゆう》を語ったら、熊谷《くまがい》の次郎|直実《なおざね》というのを熊谷の太郎と言うて笑われたんだ――あ、あれがうちの芸著です、寝坊の親玉」
 と、そとを指さしたので、僕もその方に向いた。いちじくの葉かげから見えたのは、しごき一つのだらしない寝巻き姿が、楊枝《ようじ》をくわえて、井戸端《いどばた》からこちらを見て笑っている。
「正ちゃん、いいものをあげようか?」
「ああ」と立ちあがって、両手を出した。
「ほうるよ」と、しなやかにだが、勢いよくからだが曲がるかと思うと、黒い物が飛んで来て、正ちゃんの手をはずれて、僕の肩に当った。
「おほ、ほ、ほ! 御免下さい」と、向うは笑いくずれたが、すぐ白いつばを吐いて、顔を洗い出した。飛んで来たのは僕のがま口だ。
「これはわたしのだ。さッき井戸端へ水を飲みに行った時、落したんだろう」
「あの狐《きつね》に取られんで、まア、よかった」
「可哀《かわい》そうに、そんなことを言って――何という名か、ね?」
「吉弥《きちや》と言います」
「帰ったら、礼を言っといておくれ」と、僕は僕の読みかけているメレジコウスキの小説を開らいた。
 正ちゃんは、裏から来たので、裏から帰って行ったが、それと一緒に何か話しをしながら、家にはいって行く吉弥の素顔をちょっとのぞいて見て、あまり色が黒いので、僕はいや気がした。

     二

 僕はその夕がた、あたまの労《つか》れを癒《いや》しに、井筒屋へ行った。それも、角《かど》の立たないようにわざと裏から行った。
「あら、先生!」と、第一にお貞婆さんが見つけて、立って来た。「こんなむさ苦しいところからおいでんでも――」
「なアに、僕は遠慮がないから――」
「まア、おはいりなさって下さい」
「失敬します」と、僕は台どころの板敷きからあがって、大きな囲炉裡《いろり》のそばへ坐った。
 主人は尻《しり》はしょりで庭を掃除しているのが見えた。おかみさんは下女同様な風をして、広い台どころで働いていた。僕の坐ったうしろの方に、広い間が一つあって、そこに大きな姿見が据《す》えてある。お君さんがその前に立って、しきりに姿を気にしていた。畳一枚ほどに切れている細長い囲炉裡には、この暑いのに、燃木《まき》が四、五本もくべてあって、天井から雁木《がんぎ》で釣《つ》るした鉄瓶《てつびん》がぐらぐら煮え立っていた。
「どうも、毎度、子供がお世話になって」と、炉を隔てて僕と相対したお貞婆さんが改まって挨拶《あいさつ》をした。
「どうせ、丁寧に教えてあげる暇はないのだから、お礼を言われるまでのことはないのです」
「この暑いのに、よう精が出ます、な、朝から晩まで勉強をなさって?」
「そうやっていなければ喰えないんですから」
「御常談《ごじょうだん》を――それでも、先生はほかの人と違って、遊びながらお仕事が出来るので結構でございます」
「貧乏ひまなしの譬《たと》えになりましょう」
「どう致しまして、先生――おい、お君、先生にお茶をあげないか?」
 そのうち、正ちゃんがどこからか帰って来て、僕のそばへ坐って、今|聴《き》いて来た世間のうわさ話をし出す。お君さんは茶を出して来る。お貞が二人の子供を実子のように可愛がり、また自慢するのが近処の人々から嫌われる一原因だと聴いていたから、僕はそのつもりであしらっていた。
「どうも馬鹿な子供で困ります」と言うのを、
「なアに、ふたりとも利口なたちだから、おぼえがよくッて末頼《すえたの》もしい」と、僕は讃《ほ》めてやった。
「おッ母《か》さん、実は気が欝《うっ》して来たんで、一杯飲ましてもらいたいんです、どッかいい座敷を一つ開けてもらいましょうか?」
「それはありがとうござります」と、お貞はお君に目くばせしながら、
「風通しのええ二階の三番がよかろ。あすこへ御案内おし」
「なアに、どこでもいいですよ」と、僕は立ってお君さんについて行った。煙草盆《たばこぼん》が来た、改めてお茶が出た。
「何をおあがりなさいます」と、お君のおきまり文句らしいのを聴くと、僕が西洋人なら僕の教えた片言を試みるのだろうと思われて、何だか厭な、小癪《こしゃく》な娘だという考えが浮んだ。僕はいい加減に見つくろって出すように命じ、巻煙草をくわえて寝ころんだ。
 まず海苔《のり》が出て、お君がちょっと酌《しゃく》をして立った跡で、ちびりちびり飲んでいると二、三品は揃《そろ》って、そこへお貞が相手に出て来た。
「お
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