問すると、もう出発していなかった。僕は何だか興ざめた気がした。それから、一週間、二週間を経ても、友人からは何の音沙汰《おとさた》もなかった。しかし、僕は、どんな難局に立っても、この女を女優に仕立てあげようという熱心が出ていた。

     六

 僕は井筒屋の風呂《ふろ》を貰《もら》っていたが、雨が降ったり、あまり涼しかったりする日は沸《た》たないので、自然近処の銭湯に行くことになった。吉弥も自分のうちのは立っても夕がたなどで、お座敷時刻の間に合わないと言って、銭湯に行っていた。僕が行くころには吉弥も来た、吉弥の来るころには僕も行った。別に申し合わせたわけでもなかったが、時々は向うから誘うこともあった。気がつかずにいたが、毎度風呂の中で出くわす男で、石鹸《しゃぼん》を女湯の方から貰って使うのがあって、僕はいつも厭な、にやけた奴だと思っていた。それが一度向うからあまり女らしくもない手が出て、
「旦那、しゃぼん」という声が聴《きこ》えると、てッきり吉弥の声であった。男はいつも女湯の方によって洗っていた。
 このふたりは湯をあがってからも、必らず立ち話した。男は腰巻き一つで、うちわを使いながら、湯の番人の坐っている番台のふちに片手をかけて女に向うと、女はまた、どこで得たのか、白い寒冷紗《かんれいしゃ》の襞《ひだ》つき西洋寝巻きをつけて、そのそばに立ちながら涼んでいた。湯あがりの化粧をした顔には、ほんのりと赤みを帯びて、見ちがえるほど美しかった。
 ほかにも芸者のはいりに来ているのは多いが、いつも目に立つのはこの女がこの男と相対してふざけたり、笑ったりしていたことである。はじめはこの男をひいきのお客ぐらいにしか僕は思っていなかったが、石鹸事件を知ったので、これは僕の恋がたきだと思った。否、恋がたきとして競争する必要もないが、吉弥が女優になりたいなどは真ッかなうそだと合点《がてん》した。急に胸がむかむかとして来ずにはいられなかった。その様子がかの女には見えたかも知れないが、僕はこれを顔にも見せないつもりで、いそいで衣服《きもの》をつけてそこを出た。しまったと後悔したのは、出口の障子をつい烈《はげ》しくしめたことだ。
 きょうは早く行って、あの男またはその他の人に呼ばれないうちに、吉弥めをあげ、一つ精一杯なじってやろうと決心して、井筒屋へ行った。湯から帰ってすぐのことであった。
「叔母《おば》さん」僕もここの家族の言いならしに従って、お貞婆アさんをそう呼ぶことにしたのだ!――
「きょうは今から吉弥さんを呼んで、十分飲みますぞ」
「毎度御ひいきは有難うございますけれど、先生はそうお遊びなさってもよろしゅうございますか?」
「なアに、かまいませんとも」
「しかし、まだ奥さんにはお目にかかりませんけれど、おうちでは独りでご心配なさっておられますよ。それがお可哀そうで」
「かかアは何も知ってませんや」
「いいえ、先生のようなお気質では、つれ添う身になったら大抵想像がつきますもの」
「よしんば、知れたッてかまいません」
「先生はそれでもよろしかろうが、私どもがそばにいて、奥さんにすみません」
「心配にゃア及びません、さ」景気よくは応対していたものの、考えて見ると、吉弥に熱くなっているのを勘づいているので、旦那があるからとてもだめだという心をほのめかすのではないかとも取れないことではない。また、一方には、飲むばかりで借りが出来るのを、もし払われないようなことがあってはと心配し出したのではないかとも取れた。僕はわざと作り笑いをもって平気をよそい、お貞やお君さんや正ちゃんやと時間つぶしの話をした。吉弥がまだ湯から帰らないのをひそかに知っていたからだ。
「吉弥は風呂に行ってまだ帰りませんが――もう、帰りそうなものだに、なア」と、お貞はお君に言った。
「もう、一時間半、二時間にもなる」と、正ちゃんが時計を見て口を出した。
「また、あの青木と蕎麦屋《そばや》へ行ったのだろう」お君が長い顎《あご》を動かした。蕎麦屋と聴けば、僕も吉弥に引ッ込まれたことがあって、よく知っているから、そこへ行っている事情は十分察しられるので、いいことを聴かしてくれたと思った。しかし、この利口ではあるが小癪な娘を、教えてやっているが、僕は内心非常に嫌いであった。年にも似合わず、人の欠点を横からにらんでいて、自分の気に食わないことがあると、何も言わないで、親にでも強く当る。
「気が強うて困ります」とは、その母が僕にかつて言ったことだ。まして雇い人などに対しては、最も皮肉な当り方をするので、吉弥はいつもこの娘を見るとぷりぷりしていた。その不平を吉弥はたびたび僕に漏らすことがあった。もっとも、お君さんをそういう気質に育てあげたのは、もとはと言えば、親たちが悪いのらしい。世間の評判を聴くと、ま
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