うのだ。最も多望であった脚本創作のことなどは、ほとんど全く手がつかなかったと言ってもいい。
 学校の方は一同僚の取りなしでうまく納まったという報告に接したが、質物の取り返しにはここしばらく原稿を大車輪になって働かなければならない。
 僕は自分の腕をさすって見たが、何だか自分の物でないようであった。

     二六

 その後、四、五十日間は、学校へ行って不愉快な教授をなすほか、どこへも出ず、机に向って、思案と創作とに努めた。
 愉快な問題にも、不愉快な疑問にも、僕は僕そッくりがひッたり当て填《はま》る気がして、天上の果てから地の底まで、明暗を通じて僕の神経が流動|瀰漫《びまん》しているようだ。すること、なすことが夢か、まぼろしのように軽くはかどった。そのくせ、得たところと言っては、数篇の短曲と短い小説二、三篇とである。金にしては何ほどにもならないが、創作としては、よしんば望んでいた脚本が出来たとしても、その脚本よりかずッと傑作だろうという確信が出た。
 僕のからだは、土用休み早々、国府津へ逃げて行った時と同じように衰弱して、考えが少しもまとまらなくなった。そして、僕が残酷なほど滅多に妻子と家とを思い浮べないのは、その実、それが思い浮べられないほどに深く僕の心に喰い込んでいるからだという気がした。
「ええッ、少し遊んでやれ!」
 こう決心して、僕はなけなしの財布を懐《ふところ》に、相変らず陰欝な、不愉快な家を出た。否、家を出たというよりも、今の僕には、家をしょって歩き出したのだ。
 虎《とら》の門《もん》そとから電車に乗ったのだが、半ば無意識的に浅草公園へ来た。
 池のほとりをぶらついて、十二階を見ると、吉弥すなわち菊子の家が思い出された。誰れかそのうちの者に出会《でくわ》すだろうかも知れないと、あたりに注意して歩いた。僕はいつも考え込んでいるので外へ出ても、こんなにそわそわしい歩き方をすることは滅多にないのだ。
 菊子はとうとう僕の家へ来なかった。お袋もまたそうであった。ひょッとすると、菊子の目が全くつぶれたのではないか知らん? あるいはまた野沢も、金がなくなったため、足が遠のいていはしないか? また、かの女は二度、三度、四度目の勤めに出てはいないか?
 こういうことを思い浮べながら、玉乗りのあった前を通っていると吾妻橋《あづまばし》の近処に住んでいる友人に会った。
「どこへ行くんだ?」
「散歩だ」
「遠いところまで来たもんだ、な」
「なアに、意味もなく来たんだ」
「どッかで飲もう」ということになり、つれ立って、奥の常磐《ときわ》へあがった。
 友人もうすうす聴いていたのか、そこで夏中の事件を問い糺《ただ》すので、僕はある程度まで実際のところを述べた。それから、吉原へ行こうという友人の発議に、僕もむしゃくしゃ腹を癒《いや》すにはよかろうと思って、賛成し、二人はその道を北に向って車で駆けらした。
 翌朝になって、僕も金がなければ、友人もわずかしか持っていない。止むを得ず、僕がいのこって、友人が当てのあるところへ行って取って来た。
「滑稽《こっけい》だ、ねえ?」
「実に滑稽だ」
 二人は目を見合わせて吹き出した。大門《おおもん》を出てから、ある安料埋店で朝酒を飲み、それから向島《むこうじま》の百花園へ行こうということに定まったが、僕は千束町へ寄って見たくなったので、まず、その方へまわることにした。
 僕は友人を連れて復讐に出かけるような意気込みになった。もっとも、酒の勢いが助けたのだ。
 朝の八時近くであったから、まだ菊子のお袋もいた。
「先生、済まない御無沙汰をしていまして――一度あがるつもりですが」と、挨拶をするお袋の言葉などには、僕はもう頓着しなかった。
「菊ちゃんの病気はどうです?」僕は敵の本陣に切り込んだつもりだ。
「あの通り、だんだん悪くなって来まして、ねえ」と、お袋は実際心配そうな様子で「入院しなけりゃア直らないそうですが、それにゃア毎月小百円はいりますから――」
「野沢さんに出しておもらいなさい、な」と、僕は菊子に冷かし笑いを向けた。
「そううまくも行きません、わ」かの女も笑って眼鏡を片手で押さえた。
 その様子が可哀そうにもならないではないが、僕は友人とともに、出て来た菓子を喰いながら、誇りがおに、昨夜から今朝にかけての滑稽の居残り事件をうち明けた。礼を踏まない渡瀬一家のことは、もう、忘れているということをそれとなく知らせたかったのだ。すると、お袋が、それを悟ったか、悟らなかったか、
「もう、先生、居残りは困ります、ねえ。私どもも国府津で困りましたよ。先生はいらッしゃらない、奥さんはお帰りになった、これと私とでどんなにやきもきしたか知れやアしません、わ」
「しかし、まア、無事に済んだから結構です」と、僕はあくま
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