った。
 僕はその大エネルギと絶対忍耐性とを身にしみ込むほど羨《うらや》ましく思ったが、死に至るまで古典的な態度をもって安心していたのを物足りないように思った。デカダンはむしろ不安を不安のままに出発するのだ。
 こんな理屈ッぽい考えを浮べながら筆を走らせていると、どこか高いところから、
「自分が耽溺《たんでき》しているからだ」と、呼号するものがあるようだ。またどこか深いところから、
「耽溺が生命だ」と、呻吟《しんぎん》する声がある。
 いずれにしても、僕の耽溺した状態から遊離した心が理屈を捏《こ》ねるに過ぎないのであって、僕自身の現在の窮境と神経過敏とは、生命のある限り、どこまでもつき纏《まと》って来るかのように痛ましく思われた。
 筆を改めた二日目に原稿を書き終って、これを某雑誌社へ郵送した。書き出しの時の考えに従い、理屈は何も言わないで、ただ紹介だけにとどめたのだ。これが今月末の入費の一部になるのであった。
 その夕がた、もう、吉弥も帰っているだろうと思い、現に必要な物を入れてある革鞄を浅草へ取りに行った。一つは、かの女の様子を探るつもりであった。
 雷門《かみなりもん》で電車を下り、公園を抜けて、千束町、十二階の裏手に当る近所を、言われていた通りに探すと、渡瀬という家があったが、まさか、そこではなかろうと思って通り過ぎた。二階長屋の一隅《いちぐう》で、狭い古い、きたない、羅宇《らお》や煙管《きせる》の住いそうなところであった。かのお袋が自慢の年中絹物を着ているものの住所とは思えなかった。しかし、ほかには渡瀬という家がなさそうだから、跡戻《あともど》りをして、その前をうろついていると、――実は、気が臆《おく》してはいりにくかったのだ――
「おや、先生」と、吉弥が入り口の板の間まで出て来た。大きな丸髷《まるまげ》すがたになっている。
「………」僕は敷居をまたいでから、無言で立っていると、
「まア、おあがんなさいな」と言う。
 見れば、もとは店さきでもあったらしい薄ぐらい八畳の間の右の片隅に僕の革鞄が置いてある。これに反対した方の壁ぎわは、少し低い板の間になっておやじの仕事場らしい。下駄の出来かけ、桐《きり》の用材などがうっちゃり放しになっている。八畳の奥は障子なしにすぐに居間であって、そこには、ちゃぶ台を据えて、そのそばに年の割合いにはあたまの禿《は》げ過ぎた男と、でッぷり太った四十前後の女とが、酒をすませて、御飯を喰っている。禿げあたまは長火鉢の向うに坐って、旦那《だんな》ぶっているのを見ると、例の野沢らしい。
 僕はその室にあがって、誰れにもとつかず一礼すると、女の方は丁寧に挨拶したが、男の方は気がついたのか、つかないのか、飯にかこつけて僕を見ないようにしている。
 吉弥はその男と火鉢をさし挟《はさ》んで相対し、それも、何だか調子抜けのした様子。
「まア、御飯をお済ましなさい」こう、僕が所在なさに勧めると、
「もう、すんだの」と、吉弥はにッこりした。
「おッ母さんは?」
「赤坂へ行って、いないの」
「いつ帰りました?」
「きのう」
「僕の革鞄を持って来てくれたか、ね?」これはわざと聴いたのだ。
「あすこにある、わ」と、指さした。
「あれが入り用だから、取りに来ました」
「そう?」吉弥は無関係なように長い煙管をはたいた。
 こんな話をしているうちに、跡の二人は食事を済ませ、家根屋の持って来るような梯子《はしご》を伝って、二階へあがった。相撲《すもう》取りのように腹のつき出た婆アやが来て、
「菊ちゃん、もう済んだの?」と言って、お膳をかたづけた。
 いかにも、もう吉弥ではなく、本名は菊子であった。かの女は男の立った跡へ直り、煙管でおのれの跡をさし示し、
「こッちへおいで」という御命令だ。
 僕はおとなしくその通りに住まった。
 二階では、例の花を引いている様子だ。
「あれだろう?」僕がこう聴くと、
「そうよ」と、菊子が嬉しがった。
 馬鹿な奴だとは思ったが、僕はもう未練がないと言いたいくらいだから、物好き半分に根問いをして見た。二階にはおやじもいるし、他にまだ二人ばかりいる。跡からあがった(それも昼ごろから来ていたという)女は、浅草公園の待合○○の女将であった。
 菊子の口のはたの爛《ただ》れはすッかり直ったようだが、その代りに眼病の方がひどくなっている。勤めをしている時は、気の張りがあったのでまだしも病毒を押さえていられたが、張りが抜けたと同時に、急にそれが出て来たのだろう。井筒屋のお貞が言った通り、はたして梅毒患者であったかと思うと、僕は身の毛が逆立ったのである。井上眼科病院で診察してもらったら、一、二箇月入院して見なければ、直るか直らないかを判定しにくいと言ったとか。
 かの女は黒い眼鏡を填《は》めた。
 僕は女優問題
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