がる浪の音が遠く聴えた。それに耳を傾けると、そのさッと言ってしばらく聴えなくなる間に、僕は何だかたましいを奪われて行くような気がした。それがそのまま吉弥の胸ではないかと思った。
こんなくだらない物思いに沈んでいるよりも、しばらく怠っていた海水浴でもして、すべての考えを一新してしまおうかと思いつき、まず、あぐんでいる身体《からだ》を自分で引き立て、さんざんに肘《ひじ》を張って見たり、胸をさすって見たり、腕をなぐって見たりしたが、やッぱり気が進まないので、ぐんにゃりしたまま、机の上につッぷしてしまった。
「おやッ!」かしらをあげると、井筒屋は大景気で、三味の音《ね》がすると同時に、吉弥のうわ気な歌声がはッきりと聴えて来た。僕は青木の顔と先刻車から出た時の親夫婦の姿とを思い浮べた。
一一
その夜はまんじりとも眠れなかった。三味の音が浪の音に聴えたり、浪の音が三味の音に聴えたり、まるで夢うつつのうちに神経が冴《さ》えて来て、胸苦しくもあったし、また何物かがあたまの心《しん》をこづいているような工合であった。明け方になって、いつのまにか労れて眠ってしまったのだろう、目が醒《さ》めたら、もう、昼ぢかくであった。
枕もとに手紙が来ていたので、寝床の中から取って見ると、妻からのである。言ってやった金が来たかと、急いで開いて見たが、為替《かわせ》も何もはいっていないので、文句は読む気にもならなかった。それをうッちゃるように投げ出して、床を出た。
楊枝をくわえて、下に行くと、家のおかみさんが流しもとで何か洗っていた手をやすめて、
「先生、お早うござります」と、笑った。
「つい寝坊をして」と、僕は平気で井戸へ行ったが、その朝に限って井筒屋の垣根をはいることがこわいような、おッくうなような――実に、面白くなかった。顔を洗うのもそこそこにして、部屋《へや》にもどり、朝昼|兼帯《けんたい》の飯を喰いながら、妻から来た手紙を読んで見た。僕の宿《とま》っているのは芸者屋の隣りだとは通知してある上に、取り残して来た原稿料の一部を僕がたびたび取り寄せるので、何か無駄づかいをしていると感づいたらしい――もっとも、僕がそんなことをしたのはこのたびばかりではないから、旅行ごとに妻はその心配を予想しているのだ――いい加減にして切りあげ、帰って来てくれろと言うのであった。
僕も、馬鹿にさ
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