化粧部屋へ行った。

     七

「お座敷は先生だッたの、ねえ、――あんなことを言って、どうも失礼」と、吉弥は三味線をもってはいって来た。
「………」僕はさッきから独りで、どういう風に油をしぼってやろうかと、しきりに考えていたのだが、やさしい声をして、やさしい様子で来られては、今まで胸にこみ合っていたさまざまの忿怒《ふんぬ》のかたちは、太陽の光に当った霧と消えてしまった。
「お酌」と出した徳利から、心では受けまいと定《き》めていた酒を受けた。しかし、まだ何となく胸のもつれが取れないので、ろくに話をしなかった。
「おこってるの?」
「………」
「ええ、おこッているの?」
「………」
「あたい知らないわ!」
 吉弥はかっと顔を赤くして、立ちあがった。そのまま下へ行って、僕のおこっていることを言い、湯屋で見たことを妬《や》いているのだということがもしも下のものらに分ったら、僕一生の男を下げるのだと心配したから、
「おい、おい!」と命令するような強い声を出した。それでも、かの女は行ってしまったが、まさかそのまま来ないことはあるまいと思ったから、独りで酌をしながら待っていた。はたして銚子を持ってすぐ再びやって来た。向うがつんとしているので、今度は僕から物を言いたくなった。
「どうだい、僕もまた一つ蕎麦《そば》をふるまってもらおうじゃアないか?」
「あら、もう、知ってるの?」
「へん、そんなことを知らないような馬鹿じゃアねい。役者になりたいからよろしく頼むなんどと白《しら》ばッくれて、一方じゃア、どん百姓か、肥取《こえと》りかも知れねいへッぽこ旦《だん》つくと乳くり合っていやアがる」
「そりゃア、あんまり可哀そうだ、わ。あの人がいなけりゃア、東京へ帰れないじゃアないか、ね」
「どうして、さ?」
「じゃア、誰れが受け出してくれるの? あなた?」
「おれのはお前が女優になってからの問題だ。受け出すのは、心配なくおッ母さんが来て始末をつけると言ったじゃアないか?」
「だから、おッ母さんが来ると言ってるのでしょう――」
 それで分ったが、おッ母さんの来るというのは、女優問題でわざわざ来るのではなく、青木という男に受け出されるそのかけ合いのためであったのだ。
「あんな者に受け出されて、やッぱし、こんなしみッたれた田舎《いなか》にくすぶってしまうのだろうよ」
「おおきにお世話だ、あなた
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