がある[#「然し」〜「觸れようとしたところがある」に白丸傍点]ので、普通の思索家から別けて見なければならない理由がある。『代表的人物』中のスヰデンボルグ論には、ソークラテース、プロチノス、ベーメ、バンヤン、フオツクス、パスカルなども、一たび神秘的恍惚の境を經たことがあつて、その一轉機には必らず[#「一たび神秘的恍惚」〜「必らず」に傍点]病的現象[#「病的現象」に白三角傍点]が伴ふ[#「が伴ふ」に傍点]ものだと云つてあるが、そういふ病態は――たとへ、學説の上だけから云つても――僕等の恐れるところではない。生命さへ握つて居れば、強盜に會つても恐れるに及ばないではないか。近世になつてからは、神秘といふ語は、どうせ智識の平凡化に反對して居る意味だから、抱月氏の所謂『智識を絶し、若しくは智識を消したる形』に、生命さへ這入つて居れば善いのである[#「近世になつてからは」〜「善いのである」に白丸傍点]。乃ち、知力の集中情化である。
 メーテルリンクは『正義の不可思議』(これは未だ僕は見ないので上田敏氏の譯による。)といふ論文に於ても、本能の威力と心中の正義衝動とを同一であるか、どうか、疑問にしてある
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