[#「無邪氣な小供ばかりではない」に傍点]、僕等はすべて解脱が出來ないのである[#「僕等はすべて解脱が出來ないのである」に白三角傍点]。
 ああ、表象の直觀ばかりが悲痛のうちに機々相傳へて、刹那的存在である僕等の生命をつないで呉れるのである[#「ああ」〜「呉れるのである」に白丸傍点]。

 (十六) 運命の杖――悲痛の靈

 シヨーペンハウエルは意志の一時的斷滅を以つて藝術の極致とした。渠の所謂意志は世界と同一であつて、他に求めるものがないから、常に飢渇的で、その自體を食《は》んで生活して居る――之を斷滅するのは、取りも直さず世界を斷滅することである。出來ることなら、これより好都合なことはない。ニーチエはこの思想を歴史上に布衍して云つた、弱者を奴隷にして、強者が之に權力を振ふのは、文明の要素であつて、眞の文明は實に殘忍酷烈のものであると――そのつひに、偉人天才の大なるものは、悲莊の情態に住して、而もなほ身づから喜悦して居る[#「偉人天才の」〜「喜悦して居る」に傍点]と云ふに至つたのは、エメルソンの方便的樂觀と、性質は違つて居ようが、行き方は一つである。
 僕も、自分の現象即實在論には、平和な觀じ方が出來ない,無意味、無内容の活動[#「無意味、無内容の活動」に白三角傍点]その物を以つて當て填めてあるので、自然に殘酷な思想になる。井上博士の所謂活動の上には、實在なるものを豫想して居るか、または豫想する傾向があるので、勢ひ例の僞善的にならうとする。その極度は、現象を現象だと別けて見て、それを卑しむ樣になつて、プロチノスのやつた通り、わが身でわが身を忌み嫌ふ樣な僞善的、愚昧的なことになるまいものでもない。大乘佛教などが、その一角から崩れて來て、死物同前になつたのはそれである。僕の所謂活動は、實在が現象となり、現象が實在となる、乃ち、物心轉換の機を活かす表象のうちに含まれて居るのである[#「僕の所謂活動は」〜「居るのである」に傍点]。だから、矢張り無目的で、殘酷なものである[#「だから」〜「殘酷なものである」に白丸傍点]。
 僕は先きにこの表象は運命の杖であると云つた。それがまたアロンの杖[#「アロンの杖」に傍点]に似て居る。『パロとその臣下の前に投げうちしに、蛇となりぬ』とあつて、エジプトの博士と法術士等もおの/\その杖を蛇と爲し得たが、アロンの杖はすべて之を呑んでしまつた
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