クは、「賤者の寶」(その論文)で見ると、公然たる新プラトーン學派の思索家、神秘家であつて、飽くまでエメルソンに浸《ひた》つて[#「飽くまでエメルソンに浸つて」に白三角傍点]、且、プロチノスとスヰデンボルグとから靈感を得て來た者らしい』と。プロチノスとは、乃ち、新プラトーン學派の人であつて、エメルソン並にスヰデンボルグも好んで引用した神秘家である。
そこで、先づ、僕の意見を述べて掛るのが本統であらうが、僕は至つて議論が下手である――友人は明確な論理を以て居ないからだと云ふ。自分もそうだらうと思つて居る。然し、これは耻づべきではない。ヘーゲルの哲學の樣に、論理その物が殆ど宇宙の生命であるかの域に達して居ても、尚傳へ難いところがあるので、シヨーペンハウエルは別な方向を取り、ハルトマンの如きもヘーゲルを利用したに過ぎない。
論理といふものは、最も明確であつても、繪で云つて見れば、寫眞以上の事は出來ない。寫眞は小いながら景色を間違ひのない樣に見せるが、それ以上の範圍又は内容を示すべきものではない,繪畫となれば、然し、その出來上つた幅面に、或捕捉し難い意味を活躍たらしむることがある。論理では、到底、神秘は説けない[#「論理では、到底、神秘は説けない」に白丸傍点]。その説き難いところは、乃ち、藝術の威嚴が生じて來る範圍である[#「その説き難いところは」〜「範圍である」に傍点]。然し、議論をする以上は、それが下手だと云つても申し譯にはならない――先づ、他の三家を論じて行くうちに、神秘の紫を溶かして置いて、それから僕の半獸主義即刹那主義[#「半獸主義即刹那主義」に白三角傍点]の色を染めて行かうと思ふ。僕に取つては、これは久し振りの議論であるので、云ひたいことは序に何でも云つてしまうかも知れない。
今一つ云つて置きたいのは、太陽に出た長谷川天溪氏の『表象主義の文學』――これは、帝國文學に出た片山正雄氏の『心經質の文學』並に早稻田文學に出た島村抱月氏の『囚はれたる文藝』と共に、心血を注がれたと思はれる近來有益な論文であるが、創作の上から表象派の文學系統を辿られたので、且、メーテルリンクに至つて、あまり論じて居られないから、僕が、この論文の前半部で、渠の思想に最も密切な感化を與へた哲理家の系統を述べるのは、衝突でもなく又重複でもあるまい。それに又、メーテルリンクをその論文『近世戯曲』
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