戦話
岩野泡鳴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)女郎《メロウ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「食+曷」、第4水準2−92−63、109下−4]
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十年振りの会飲に、友人と僕とは気持ちよく酔った。戦争の時も出征して負傷したとは聴いていたが、会う機会を得なかったので、ようよう僕の方から、今度旅行の途次に、訪ねて行ったのだ。話がはずんで出征当時のことになった。
「今の僕なら、君」と少し多言になって来た。友人は、酒のなみなみつげてる猪口を右の手に持ったがまた、そのままおろしてしまった。「今の僕なら、どうせ、役場の書記ぐらいで満足しとるのやもの、徴兵の徴の字を見ても、ぞッとする程の意気地なしやけど、あの時のことを思うたら、不思議に勇気が出たもんや。それも大勢のお立て合う熱に浮されたと云うたら云えんこともなかろう。もう、死んだんが本統であったんやも知れんけど、兎角、勇気のないもんがこない目に会うて」と、左の肩を振って見せたが、腕がないので、袖がただぶらりと垂れていた。「帰って来ても、廃兵とか、厄介者とか云われるのやろう。もう、僕などはあかん」と、猪口を口へ持って行った。
「そんなことはないさ、」と、僕はなぐさめながら、「君は、もう、名誉の歴史を終えたのだから、これから別な人間のつもりで、からだ相応な働きをすればいいじゃアないか?」「それでも、君、戦争でやった真剣勝負を思うたら、世の中でやっとることが不真面目で、まどろこしうて、下らん様に見えて、われながら働く気にもなれん。きのうもゆう方、君が来て呉れるというハガキを見てから、それをほところに入れたまま、ぶらぶら営所の近所まで散歩して見たんやけど、琵琶湖のふちを歩いとる方がどれほど愉快か知れん。あの狭い練兵場で、毎日、毎日、朝から晩まで、立てとか、すわれとか、百メートルとか、千メートルとか、云うて、戦争の真似をしとるんかと思うと、おかしうもなるし、あほらしうもなるし、丸で子供のままごとや。えらそうにして聨隊の門を出て来る士官はんを見ると、『お前らは何をしておるぞ』と云うてやりとうなる。されば云うて、自分も兵隊はんの抜けがら――世間に借金の申し訳でないことさえ保証がつくなら、今、直ぐにでも、首くくって死んでしまいたい。」
「君は、元から、厭世家であったが、なかなか直らないと見える。然し、君、戦争は厭世の極致だよ。世の中が楽しいなぞという未練が残ってる間は、決して出来るものじゃアない。軍紀とか、命令とかいうもので圧迫に圧迫を加えられたあげく、これじゃアたまらないと気がつく個人が、夢中になって、盲進するのだ。その盲進が戦争の滋養物である様に、君の現在では、家族の饑※[#「食+曷」、第4水準2−92−63、109下−4]が君の食物ではないか。人間は皆苦しみに追われて活動しているのだ。」
「そう云われると、そうに違いないのやろけど」と、友人は微笑しながら、「まア、もッとお飲み。」傾けた徳利の酒が不足であったので、「おい、お銚子」と、奥へ注意してから、「女房は弱いし、餓鬼は毎日泣きおる、これも困るさかいなア。」
「それはお互いのことだア。ね」と、僕が答えるとたん、から紙が開いて、細君が熱そうなお燗を持って出て来たが、大津生れの愛嬌者だけに、
「えろうお気の毒さまどすこと」と、自分は亭主に角のない皮肉をあびせかけ、銚子を僕に向けて、
「まア、一杯どうどす?――うちの人は、いつも、あないなことばかり云うとります。どうぞ、しかってやってお呉れやす。」
「まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんですよ。」
「そうどすか?」と、細君は亭主の方へ顔を向けた。
「まだ女房にしかられる様な阿房やない。」
「そやさかい、岩田はんに頼んどるのやおまへんか?」
「女郎《メロウ》どもは、まア、あッちゃへ行とれ。」
「はい、はい。」
細君は笑いながら、からの徳利を取って立った。
友人は手をちゃぶ台の隅にかけながら、顔は大分赤みの帯び来たのが、そばに立ってるランプの光に見えた。
「岩田君、君、今、盲進は戦争の食い物やて云うたけど、もう一歩進めて云うたら、死が戦争の喰い物や。人間は死ぬ時にならんと真面目になれんのや。それで死んでしもたら、もう、何もないのや。つまらん命やないか? ただくたばりそこねた者が帰って来て、その味が甘かったとか、辛かったとか云うて、えらそうに吹聴するのや、僕等は丸で耻さらしに帰って来たんも同然やないか?」
「そう云やア、僕等は一言も口嘴をさしはさむ権利はない、さ」
「まァ、死にそこねた身になって見給え。それも、大将とか、大佐とかいうものなら、立派な金鵄勲章をひけらかして、威張って澄ましてもおられよけど、ただの岡見伍長ではないか? こないな意気地なしになって、世の中に生きながらえとるくらいなら、いッそ、あの時、六カ月間も生死不明にしられた仲間に這入って、支那犬の腹わたになっとる方がましであった。それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でもない、速射砲の音でもない、実に、僕の隊附きの軍曹大石という人が、戦線の間を平気で往来した姿や。これが、今でも、幽霊の様に、また神さまの様に、僕の心に見えとるんや。」
「何か意味のありそうな話じゃないか?」
「詳しうすれば長なろけれど、大石という人はもとから忠実で、柔順で、少し内気な質であったと思い給え。現役であったにも拘らず、第○聨隊最初の出征に加わらなかったんに落胆しとったんやけど、おとなしいものやさかい、何も云わんで、留守番役をつとめとった。それが予備軍のくり出される時にも居残りになったんで、自分は上官に信用がないもんやさかいこうなんのやて、急にやけになり、常は大して飲まん酒を無茶苦茶に飲んだやろ、赤うなって僕のうちへやって来たことがある。僕などは、『召集されないかて心配もなく、また召集されるような様子になったら、その前からアメリカへでも飛んで行きたいんを、わが身から進んでそないに力んだかて阿房らしいやないか? て』冷かしてやったんけど大した意気込みで不平を云うとって、取り合わん。『こないなことなら、いッそ、割腹して見せてやる』とか、『鉄砲腹をやってやる』とか、なかなか当るべからざる勢いであったんや。然し、いよいよ僕等までが召集されることになって、高須大佐のもとに後備歩兵聨隊が組織され、それが出征する時、待ちかまえとった大石軍曹も、ようよう附いてくことが出来《でき》る様になったんで、その喜びと云うたら、並み大抵ではなかった。どうせ、無事に帰るつもりは無いて、細君を離縁する云い出し、自分の云うことを承知せんなら、露助と見て血祭りにする云うて、剣を抜いて追いまわしたんや。」
こう云って、友人は鳥渡《ちょっと》僕から目を離して、猪口に手をかけた。僕も一杯かさねてから、
「実際離縁したのか?」
「いや」と、友人は少し笑いを含みながら、「その手つづきは後でしてやると親類の人達がなだめて、万歳の見送りをしたんやそうや。もう、その時から、少し気が触れとったらしい。」
「気違いになったのだ、な?」
「気違い云うたら、戦争しとる時は皆気違いや。君の云い方に拠れば、戦争というものは気違いが死を喰うのか、死が気違いを喰うのか分らん。ずどん云う大砲の音を初めて聴いた時は、こおうてこおうて堪らんのやけど、度重なれば、神経が鈍になると云うか、過敏となるて云うか、それが聴えんと、寂しうて、寂しうてならん。敵は五六千メートルも隔ってるのに、目の前へでも来とる様に見えて、大砲の弾丸があたまの上で破裂しても、よそごとの様に思われ、向うの手にかかって死ぬくらいなら、こッちゃから死ぬまで戦ってやる云う一念に、皆血まなこになっとるんや。かすり傷ぐらい受けたて、その血が流れとるのを自分は知らんのやし、他人も亦それが見えんのも尤もや。強い弾丸が当って、初めて気が付くんや。それに就いて面白い話がある。僕のではない、他の中隊の一卒で、からだは、大けかったけど、智慧がまわりかねた奴であったさかい、いつも人に馬鹿にされとったんが『伏せ』の命令で発砲した時、急に飛び起きて片足立ちになり、『あ、やられた! もう、死ぬ! 死ぬ!』て泣き出し、またばッたり倒れたさかい、どないにやられたかて、同隊の軍曹が調べてやると、足の上を鳥渡敵弾にかすられたんであった。軍曹はその卒の背中をたたいて、『しっかりせい! こんな傷ならしばっとけばええ。』――」
「随分滑稽な奴じゃないか?」
「それが、さ、岩田君、跡になれば滑稽やが、その場にのぞんでは、極真面目なもんや。戦争の火は人間の心を焼き清めて、一生懸命の塊りにして呉れる。然し、こおうなればどこまでもこわいものやさかい、その方でまた気違いになるんもある。どッちゃにせい、気違いや。大石軍曹などは一番ええ、一番えらい方の気違いや。」
「うちの人もどっちかの気違いどす」と、細君は再び銚子を変えに出て来て、直ぐ行ってしまった。
友人はその跡を見送って、
「あいつの云う通り、僕は厭世気違いやも知れんけど、僕のは女房の器量がようて(奥でくすッと笑う声がした)、子供がかしこうて、金がたんとあって、寝ておられさえすれば直る気違いや。弾丸の雨にさらされとる気違いは、たとえ一時の状態とは云うても、そうは行かん。」
「それで、君の負傷するまでには、たびたび戦ったのか、ね?」
「いや、僕の隊は最初の戦争に全滅してしもたんや。――さて、これからが話の本文に這入るのやて――」
「まア、一息つき給え」と、僕は友人と盃の交換をした。酔《よ》いもまわったのであろう、友人は、気質に似合わず、非常にいい気持ちの様子で、にこにこ笑うている。然し、その笑いが何となく寂しいのは、友人の周囲を僕に思い当らしめた。
「久し振りで君が尋ねて来て、今夜はとまって呉れるのやさかい、僕はこないに嬉しいことはない。充分飲んで呉れ給え」と、酌をしてくれた。
「僕も随分やってるよ。――それよりか、話の続きを聴こうじゃないか?」
「それで、僕等の後備歩兵第○聨隊が、高須大佐に導かれて金州半島に上陸すると、直ぐ鳳凰山を目がけて急行した。その第五中隊第一小隊に、僕は伍長として、大石軍曹と共に、属しておったんや。進行中に、大石軍曹は何とのうそわそわして、ただ、まえの方へ、まえの方へと浮き足になるんで、或時、上官から、大石、しッかりせい。貴様は今からそんなざまじゃア、大砲の音を聴いて直ぐくたばッてしまうやろ云われた時、赤うなって腹を立て、そないに弱いものなら、初めから出征は望みません、これでも武士の片端やさかい、その場にのぞんで見て貰いましょ。――それからと云うものずうッと腹が立っとったんやろ、無言で鳳凰山まで行進した。もう、何でも早う戦場にのぞみとうてのぞみとうて堪えられなんだやろ。心では、おうかた、大砲の音を聴いとったんやろ。僕は、あの時成る程離縁問題が出た筈やと思た。」
「成る程、これからがいよいよ人の気が狂い出すという幕だ、な。」
「それが、さ、君忘れもせぬ明治三十七年八月の二十日、僕等は鳳凰山下を出発し、旅順要塞背面攻撃の一隊として、盤龍山《ばんりゅうざん》、東鷄冠山《ひがしけいかんざん》の中間にあるピー砲台攻撃に向《むこ》た。二十日の夜行軍、翌二十一日の朝、敵陣に近い或地点に達したのやけど、危うて前進が出来ん。朝飯の際、敵砲弾の為めに十八名の死者を出した。飯を喰てたうえへ砲弾の砂ほこりを浴びたんやさかい、口へ這入るものが砂か米か分らん様《よ》であった。僕などは、もう、ぶるぶる顫《ふる》て、喰う気にもなれなんだんやけど、大石軍曹は、僕等のあたまの上をひゅうひゅう飛んで行く砲弾を仰ぎながら、にこにこして喰っておった。「腹が出来んといくさも出来ん。」僕等の怖《こお》なった時に、却って平気なもんであった。軍曹が上官にしかられた時のうわつき方とは丸で違《
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