十五年
山本実彦
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)カチン[#「カチン」に傍点]
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『改造』を創めてからこの四月で満十五年だ。あれもこれも考えればまるで夢のようだ。廻り燈籠のように舞台がくるくる廻っていることが感ぜられるのみだ。だが、静かに眼を閉じて十五年の足あとをふり返えれば、その間におのずから元気の消長が事績を公平に物語っている。命をかけてした仕事はいつまでたってもカチン[#「カチン」に傍点]と響く生命がこもっているが、食うためにやったような仕事は見るさえ、思い出すさえ恥ずかしくて見るにたえぬ。感激でかいたものは、たといそれが推敲されていないにしても、いつまでもなつかしく読めるように、しようことなしにかいたものには生き恥をのこすほかの何ものでもあり得ない。私は今、その間の感激や、倦怠の跡をざっとかいつまんでみよう。
雑誌『改造』が品川浅間台の一角で呱々の声を挙げたのは、ちょうど、欧州大戦が片づいた大正八年の桜花ほほ笑む四月で、我が国は社会運動や労働運動に漸く目が開けそめたときであった。
何でも、八時間労働制や、労働組合公認問題が興味がひかれるときで、政治的デモクラシーの声が民衆的に飽きあきされて来つつあったときだ。福田、河上氏らが論壇に大きく崛起して、社会主義的論調が活発溌地にインテリ層に潮の如く浸り込んで行くときで、当時『中央公論』は吉野氏を主盟としておったが、我が誌には新鋭山川、賀川君らがつぎつぎに執筆しておった。また『改造』より二カ月遅れて生誕した『解放』には福田、堺両氏及び帝大新人会の一派が相拠っていたが、このうち福田氏は約一年ののち、『改造』に専ら執筆するようになり、十数年間博大の筆陣を布いて一世の注目を惹いていたのであった。このほか、河上肇氏は個人雑誌『社会問題研究』によって、社会思潮に鮮鋭な解釈と批判とを下だしており、それが学生連の人気となって何でも二万部ぐらいを一時は発行していたという。
この頃からジャーナリズムに断然たる特殊性が現われて来た。社会思想の根拠のないものはだんだん指導性を失って来た。雑誌『改造』がそれらにたいし鋭き批判を下だすと、刺激と感激とが極端に起こってきた。あるものは我が誌を蛇蝎の如く排忌するものもあれば、一面には一方の救世主の如く感激するものもあった。しかし、そのどちらもわれわれの意図を誤解していた。我が誌は決して啓蒙運動の境を出でなかった。批判的境地を厳守した。全面的に我が国の方向を誤らしてはならぬ。世界にいわれなく孤立してはならぬ。こうしたモットーの前に進んで来たのであった。
だが、世界の一角に発生、展開を示しつつあるソ連の諸機構はひいて我が国に重要の影響力あるべきを思い、そしてなまなかそれが秘密秘密で蓋を掩いかぶされていては、却って我が国の方途に不測の禍害のもたらさるべきであろうことを思ったので、ソ連の諸機構、諸現象には、批判を加えることを常に怠らなかった。
時代の新しい潮波はだんだん飛躍し、労働組合は公認され、巷には労働運動の英雄が出現するに至った。神戸の貧民窟から賀川豊彦君が颯爽として社会の正面に躍り出た。彼の『死線を越えて』の一著の感激はたいしたものであった。彼の行くところ、青年子女蝟集してその手を握るを光栄とした。彼の声音に接するを誉れとした。支配階級の錦繍綾羅にふれるより、この一青年のボロ服にさわって見るのを喜ぶ奇現象を生んだ。大正八年――十年までの我が思想的激変は、たしかに画期的であった。この一著は高名な芸術家からはあまり顧みられなかったが、出版史上に我が国で予想だにすることのできなかった数十万部がプロやインテリの汗手に購われた。それのみならず、この著はほとんど世界各国語にも翻訳された。
何でもかでも古い伝統を打破しようとする時代であった。クロポトキンから新マルサス主義、ギルド、レニン、リッケルト、フッサールなど目まぐるしいまで変わった学説が歓迎される。森戸君が大正八年クロポトキン事件に坐して大学を逐われてから、思想的厄難がつぎつぎに起こって来た。
越えて大正十年一月から思想界の第一人者バートランド・ラッセルが我が『改造』に執筆したときは、異常のセンセーションを惹起した。また同年七月彼が来朝したときの如き、神戸埠頭には全神戸の労働者四、五万が出迎うるの謀議が熟していたのを、そうしては、いろいろ面白からぬ現象の到来を予想して、官憲の許すところとならなかったが、それでも岸壁はものすごいまでの人の山であった。
彼は、北京で大病をしたあがりにもかかわらず慶応大学で「文明の再建」の講演をしたときなぞ、むしろ場内にはいれぬ人が多かったのであった。彼は我が国にとりては危険人物であった。その来朝したときは警察との間に、政府との間に、たいへんに面倒ないきさつがあった。彼は、そうした雰囲気にあるのを苦悩しておった。だが、彼はとても強い個性の持主ではあったが、そのときはたいへん隠忍していた。彼は英国貴族で、その性格はとても日本人には好かれた。お世辞を言うのが大の嫌いであった。これは別の話だが、いつかゆっくりした時間があったとき、彼に「現存する世界の偉人は誰と思う? その三人ばかりを挙げて見てくれ」と言ったら、彼は第一にアルベルト・アインシュタインを挙げ、第二にある人を、そして三人目には答えなかった。そのとき私は「相対性原理」なるものが学界で如何なる地位にあるかを知らなかった。したがってアインシュタインなる人がどんな人かをも知るところがなかった。彼は余の通訳子をしてニュートンに相対立する偉人であることをつぶさに物語ってくれた。
それから、その翌日であったか、その日は確かにおぼえぬが、私は西田幾多郎さんに相対性理論のいかなるものであるかをきき、さらに、石原純さんにもそのことをきいて、今度は我が学界のために四、五万円を投じてアインシュタイン氏を招聘するときめて、室伏高信君に渡欧してもらったのであった。
もっとも、そのことを決するまでには、いくたの我が理学者たちの意見もきいたのであったが、異口同音に、「それは大学でもかねがね招びたく思っているのであるが、その費用がないので」とのことがあった。
かくて十一月十八日アインシュタイン教授夫妻は東京駅についた。その夜の光景はまるで凱旋将軍を迎うる如く、プラットホーム及び停車場の広場は数万の人の山で、教授夫妻は三十分近くもプラットホームに立往生したのであった。
教授は滞日中、東京帝大の特別講演をはじめ、その他京都、大阪、神戸、仙台、福岡で画期的長講演をして、至るところ、偉人としての風貌を慕われた。そして、帝室の御殊遇を始めとし、帝国学士院でも前例のない歓迎辞を穂積院長の名を以て公にした。その内容は、「ガリレオ、ニュートンらが、力学と物理学とにおいて首唱せる原理は二百年来、万世不易なるべしと考えられていたが、教授は別天地より宇宙の状勢を洞観し、遂に時間と空間との融合を図り、以て自然現象を究明するの針路を開かれたその業績の大なる、実に古今独歩である」というにあった。なるほど、彼の思想的革命はニュートンよりも、コペルニクスや、ガリレオよりも偉大であったであろう。
私は全世界の思潮を風靡したるこの大偉人と、四十日間に亙りて起居を同じくし、芸術の話や、音楽の話、さては社会、経済の諸機構の話に至るまで何かといい指示を受けた。ただ、いつか私に対して「自分は数学が得意でないから」と洩らしたことがある。私は理論物理の不世出の偉人にしては、ずいぶんおかしいことと思って、さらにきき直してみたことがあったが、やはり、それは私の誤りではなかった。教授はまた数学では有名な京大の園正造教授にただし、もしくは石原純氏にたいして、いろいろ相談的の会話があるのを聞いたことがあった。そして東北大学金属科の本多光太郎さんにたいしても、ある質問をするのを見受けたことがある。
私は思った。もうこれほどの人物になれば、自分の地位とか身分とかいうものを超越する。国家をも、国際をも超越する。一つの長所を尊敬し、そして自分の不足をいつまでも補って行こうとする真理探究者のあの謙虚な態度に頭が下がったのであった。これだけの態度を見せさせられただけでも、私は今回教授を招いた価値のとても高貴であったことを感ぜずにはいられなかった。私は、この方の学問には聾唖で、こんな深奥な理論などは皆目わかるはずがない。しかし、その人格的に感じたことから推しても、市井で眺めたり、つき合ったりする人びとより、一まわり、二まわりの大きさを感ぜずにはいられなかった。
教授は音楽が好きであった。ベルリンからヴァイオリンを携えて日本に来朝したのであったが、日本内地を旅行中も、夕食後の気もちのいい時などには私などを慰める意味もこもっていたであろうが、ときどき提琴をきかさるるときがあった。私はそのとき、あの大きな頭や、あのふくよかな顔をつくづく見入るのであったが、その瞬間ほど教授にとりて幸福な時間はないようであった。すべてを打ち忘れ、あらゆるものを超越し、身の苦悩も、身の海外万里の地にあるのも打ち忘れて満身法悦にひたっているように見られたのであった。
私は、教授の思想と、夫人との思想的立場が、どうであろうかはもちろん知るによしなきことではあるが、しかし、夫人を愛するというよりは、いたわりつつむ至人的の態度にも打たれたのであった。
夫婦の地位、教養の距たりは、ともすれば一方を侮蔑するがような、もしくは、心の窓を三分の一も展かないようなものが有識者には殊に多いのに、この人を知り、その夫人を知って、教授の心の領域が聖者にも近いものがあると私は感じたのであった。教授の宇宙を越え得べき精神思索、理想探求の奥は窺うこともできない私ではあるが、そのポツリ、ポツリ話し出す言葉を、私は、あたかもロダンの芸術にでも接するように、むさぼり味わったのであった。
私は、この人は東洋のさびもわかる人である、とも思った。お能を見たとき、伶人の古楽をたのしみきいたとき、その批評がなかなか堂に入ったものであった。『改造』の十五年を叙して、思わぬ横町の風景にまではいってしまったが、私は教授の如く、文明、文化、百年、千年のため、常に第一義的聖線に立ち得る資格について、深刻な瞑想にさそわるることもたびたびあった。自分たちは今、いかなる人間としての役割についているのか。発売禁止とか、切取りとかの険を冒して、何のために営々努力しているのか。われわれの最後の一線は、どこにあるのか。文化のためとか、文明のためとか、国家や、民族のためと、漠然とは言い得るにしても、さて、具体的にわれわれの方途を解剖し、理論づけることのできないプアな状態にあったその当時の私であった。
だが、その当時からすれば我が日本もいちじるしく大人になった。そして万事が大国的に、外の大民族と対等の文化的姿勢を取れるようになった。我が民族は伸び行く地力と、咀嚼とがあった。さりながら、私はそのときから十四年も経過して、依然呉下の阿蒙たる地位を脱することの出来ない身である。天才の恵まれているもののない私である。どうも同じ人間であっても、何だか、そこに非常な段階のあるような気がしてならぬ。少くとも、私の頭というものが、テンポの速い我が日本の現勢にたいし、どれだけ今後、役立ち得るかということを考えて、私は自信がつきかねた。と同時に、すべての日本の思想的呑みこみの早さと、荒ッポさと、飽きッぽさにも合点のゆかぬふしだらけだ。
アインシュタイン教授を迎える前に、米の哲学者デュウイ教授や、産児制限のサンガー女史をも迎えた。ところが女史は横浜まで来て上陸が出来ぬ始末で、何とも気の毒の至りにたえなかった。しかし、神田青年会館で一回の演説を限ってやることを私から内務省に誓約して、やっとのことで上陸ができたのであった。
『改造』に外国のそれぞれの権威から寄稿したものは前記のほか、フッサール、リッケ
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