有島武郎氏とは、郷里が同じいので、ときどき原稿もかいてもらった。「宣言」や「描かれたる花」その他を記憶している。氏は内面的には強い人であったようだが、人から頼まれれば断わりきれないところがあった。私に紹介されたある社会主義者のために、私は、その死骸までも片づけなければならぬこともあった。それから芥川君や、葛西君も、したしい交遊があり、特色のある人びとであり、まだ将来芸術的に何かを期待されていたのに、惜しいことをしたものだ。岩野泡鳴君も、ちょいちょい、遊びにやって来た。君は私を苦手だといっておった。そしてときどき議論でもすると、すぐに耳が真赤になったことをもおぼえている。

 私の日記から、文壇人とのいろいろの交際のことを抽き出してかいて置けば、案外、何かの役に立つであろうことが少なくはないと思うが、今では、その気もなければ、その暇もない。また、大杉栄君や、福田徳三氏や、高畠素之君等、とても特長のある人びとに関してもその通りだ。

 次に、私の社からの出版物としては第一に円本の先駆をなした『現代日本文学全集』を挙げ、それから『アインシュタイン全集』、『経済学全集』、『マルクス・エンゲルス全集』、『資本論』、『日本地理大系』その他数十の全集を発行して来た。私はその代表的であり、画期的である円本全集のいわれを一言してみたい。

 あの大正十二年九月一日の関東大震火災のために、東京のずいぶん大多数の図書が丸焼けになった。そして、それからはいろいろな書籍の蒐集には甚だしい困難が伴ってくるとともに、いくら金を出しても集めることの困難なものができてきた。クラシックな書物の値段が高くなってくる。このとき一ばん困るのは読書子でなければならぬ。そこで金のあるもののところへだんだんすべての書籍が集められてしまう。そういうことになったら特権階級ばかりが、知識の独占者になって、それ以外の人びとは読みたい本も手に入るることはできない。というので、これには円本をやるよりほかに行く道がない。円本をやるとすればどこに第一着に手をつくべきかを協議したところ、それは明治から大正までの文学の大集成がよかろうというので『現代日本文学全集』が生るるに至ったのであった。そしてそれを大正十五年十一月発表するに至った。

 何分、一冊に集録さるる枚数が二千枚内外であったので、市価十円のものが一円で買えるというので、出版界はひっくり返るように驚いた。そしてこの壮挙が発表さるると共に、毎日毎日全国からは感激の手紙や端書が幾百通も、幾千通も来るという状態であった。

 我が社は、そのとき、経済状態は行き詰まっていた。この全集の成敗は我が社にとりて重要に影響してくる。そこで全社員は二週間も、着のみ着のままで芝愛宕下一丁目の元の改造社に籠城したのであった。妻子のあるものも、帰宅しない夜が多くあるという悲壮な決意のもとにかかった。
 社はそのとき創立未だ日が浅いので、版権等の交渉についても、そして一人一冊とか、三人一冊とかの割当てについても、名状のできない困難に遭逢したのであった。
 が、同僚たちは固い信念のもとによく努力してくれる。そして文壇の人びとも、全国中を行脚、遊説して廻っていただくなど、ここにも一つの前例がひらかれたのであった。結果は、世界に例のない画期的の好果にほほえむことができたのであった。それも、一昔前の夢ものがたりにすぎない。

 私は改造社が本月を以て満十五年になるというので、社の若き人びとにいわれるままに、柄にもなく経験のとびとびや、断想のきれぎれをつなぎ合わせて見た。

 窮極のところ、こうした事業も、やっぱり一つの創作である。自分の腹からこみ上げてくる自信と創意とがなければ、世を動かし、人を動かすことはできぬように思う。他の人がやってうまく行ったのを真似てみたところで、要するにそれは猿真似にすぎぬ。猿真似は心もちのいいものではないばかりか、人の腹のなかになんらの手応えをも与え得ない。

 三月はいつもいやな月である。児らの試験地獄を現前させられるいやな月である。しかし私どもの一生涯はただ単に三月ばかりでなく、その僅かの半日も、一分間も、そしてそれが六十年、七十年を通じて間断なき試験場のようである。人類とか、民族とか、文化とか、文明とかの聖戦という美わしい名の前に、一分間でもその努力が弛緩することがあったならば、商業的には直ぐに落伍者となってしまうのである。

 私どもは何事をするのでも常に広い視野を一まわり見渡さねばならぬ。日本は日本ばかりで太って行くことができないように、日本ばかりで通用する正義感や、道徳観であってはならぬことだ。われわれが毎月、毎月雑誌をつくって行く上に一ばん心を注ぐのはこの点である。ことに、このごろの社会情勢は外国の長所を摂取するこ
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