ぎの貧棒人《びんぼうにん》とて、里子に遣《や》る手当《てあて》も出来ず、乳が足《たり》ぬので泣《なき》せがむ子を、貰《もら》い乳《ちち》して養いおりしが、始終子供に斗《ばか》り掛《かか》っていれば生活が出来ないから、拠無《よんどころな》くこの児《こ》を寐《ね》かしつけ、泣《ない》たらこれを与えてくれと、おもゆ[#「おもゆ」に傍点]を拵《こしら》えて隣家の女房に頼み、心ならずも商《あきな》いをしまい夕方帰《かえっ》て留守中の容子《ようす》を聞くと、例《いつ》も灯《ひ》の付《つく》ように泣児《なくこ》が、一日一回も泣《なか》ぬと言《いわ》れ、不審ながらも悦《よろこ》んで、それからもその通りにして毎日、商《あきな》いに出向《でむく》に何《なに》とても、留守中一回も泣《ない》た事が無く、しかも肥太《こえふと》りて丈夫に育つ事、あまりに不思議と、我も思えば人も思い、段々《だんだん》噂が高くなり、遂《つい》には母の亡霊|来《きた》りて、乳を呑《のま》すのだと云うこと、大評判となり家主より、町奉行所へ訴《うっ》たえ出たる事ありと、或る老人の話しなるが、それか有《あら》ぬか兎《と》に角《かく》、食物を与えざるも泣《なく》こと無く、加之《しかのみならず》子供が肥太《こえふと》りて、無事に成長せしは、珍と云うべし。

◎伊賀《いが》の上野《うえの》は旧|藤堂《とうどう》侯の領分だが藩政の頃|犯状《はんじょう》明《あきら》かならず、去迚《さりとて》放還《ほうかん》も為し難き、俗に行悩《ゆきなや》みの咎人《とがにん》ある時は、本城《ほんじょう》伊勢《いせ》の安濃津《あのつ》へ差送《さしおく》ると号《ごう》し、途中に於《おい》て護送者が男は陰嚢《いんのう》女は乳《ちち》を打《うっ》て即死せしめ、死骸を路傍の穴へ蹴込《けこみ》て、落着《らくちゃく》せしむる事あり、或《ある》時亭主殺しの疑いある女にて、繋獄《けいごく》三年に及ぶも証拠|上《あが》らずされば迚《とて》追放にもなし難く、例の通りこの刑を行《おこな》いしが、その婦人の霊、護送者の家へ尋ね行き、今日《こんにち》は御主人にお手数《てかず》を掛《かけ》たり、御帰宅あらば宜敷《よろしく》と云置《いいお》き、忽《たちま》ち影を見失いぬ、妻不思議に思いいるところへ、主人《あるじ》帰り来《きた》りしかば、こうこうと物語りしに、主人《あるじ》色を変じて容貌|風体《ふうてい》などを糺《ただ》し、それこそ今日《きょう》手に掛《かけ》たる女なり、役目とは云いながら、罪作りの所為《わざ》なり、以来は為すまじき事よと、後悔して後《の》ち百姓となり、無事に一生を送りしと、僕上野に遊んだ際、この穴を見たが惜《おし》いかな、土地の名を聞洩《ききもら》した、何でも直《じ》き上に寺のある、往来の左方《ひだり》だと記憶している。

◎先代の坂東秀調《ばんどうしゅうちょう》壮年の時分、伊勢《いせ》の津《つ》へ興行に赴き、同所|八幡《やはた》の娼家|山半楼《やまはんろう》の内芸者《うちげいしゃ》、八重吉《やえきち》と関係を結び、折々《おりおり》遊びに行きしが、或《ある》夜鰻を誂《あつら》え八重吉と一酌中《いっしゃくちゅう》、彼が他《た》の客席へ招かれた後《あと》、突然年若き病人らしい、婦人が来て、妾《わたし》は当楼《こちら》の娼妓《しょうぎ》で、トヤについて食が進まず、鰻を食《たべ》たいが買う力が無いと、涙を流して話すのを、秀調哀れに思いその鰻を与えしに、彼はペロリと食《たべ》て厚く礼を言い、出て往《いっ》た後《あと》間も無く八重吉が戻って、その話を聞きまたしても畜生がと、大層《たいそう》立腹せしに驚き秀調その訳を訊ねしに、こは当楼の後ろの大薮に数年《すねん》住《すん》でいる狸の所為《しわざ》にて、毎度この術《て》で高味《うまい》ものをして[#「して」に白丸傍点]やらるると聞き、始めて化《ばか》されたと気が付《つい》て、果《はて》は大笑いをしたが、化物《ばけもの》と直接応対したのは、自分|斗《ばか》りであろうと、誇乎《ほこりか》に語りしも可笑《おか》し。

◎維新少し前の事だ、重罪犯の夫婦が伝馬町《でんまちょう》の牢内へはいった事がある、素《もと》より男牢と女牢とは別々であるが、或《ある》夜女牢の方に眠りいたる女房の元へ夢の如く、亭主が姿を現わし、自個《おれ》も近々《ちかぢか》年が明くから、草鞋《わらじ》を算段してくれと云う、女房不審に思ううち、夢が消《きえ》てしまった、大方夫婦の情で案じているから、こんな夢を見るのだろうと思いおりしに、翌晩から同じ刻限に三晩続け、殊《こと》に最後の夜の如きは、愚痴ッぽい事を云《いっ》て消失《きえ》た、あまり不思議だから女房は翌日、牢番に次第を物語った、すると死刑になる囚人には、折々ある事だ願ってみろと
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