白い蝶
岡田三郎助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)最早《もう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当時|取払《とりはら》いに
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友の家を出たのは、最早《もう》夕暮であった、秋の初旬《はじめ》のことで、まだ浴衣《ゆかた》を着ていたが、海の方から吹いて来る風は、さすがに肌寒い、少し雨催《あめもよい》の日で、空には一面に灰色の雲が覆《おお》い拡《ひろが》って、星の光も見えない何となく憂鬱な夕《ゆうべ》だ、四隣《あたり》に燈《ともし》がポツリポツリと見え初《そ》めて、人の顔などが、最早《もう》明白《はっきり》とは解《わか》らず、物の色が凡《すべ》て黄《きい》ろくなる頃であった。
友の家というのは、芝《しば》の将監橋《しょうげんばし》の側《そば》であるので、豊岡町《とよおかちょう》の私の家へ帰るのには、如何《どう》しても、この河岸通《かしとおり》を通って、赤羽橋《あかばねばし》まで行って、それから三田《みた》の通りへ出なければならないのだ、それはまだ私の学校時代の事だから、彼処《あすこ》らも現今《いま》の様に賑《にぎや》かではなかった、殊《こと》にこの川縁《かわぶち》の通りというのは、一方は癩病《らいびょう》病院の黒い板塀がズーッと長く続いていて、一方の川の端《はし》は材木の置場である、何でも人の噂によると、その当時|取払《とりはら》いになった、伝馬町《でんまちょう》の牢屋敷の木口《きくち》を此処《ここ》へ持って来たとの事で、中には血痕のある木片《きぎれ》なども見た人があるとの談《はなし》であった、癩病《らいびょう》病院に血痕のある木! 誰《た》れしもあまり佳《よ》い心持《こころもち》がしない、こんな場所だから昼間でも人通りが頗《すこぶ》る少ない、殊《こと》に夜に入《い》っては、甚《はなは》だ寂しい道であった。
私は将監橋の方から、この黒塀の側《そば》の小溝《こみぞ》に添うて、とぼとぼと赤羽橋の方へやって来た、眼の前には芝|山内《さんない》の森が高く黒い影を現しておる、後《うしろ》の方から吹いて来る汐風《しおかぜ》が冷《ひ》やつくので、私は懐《ふところ》に手を差入れながら黙って来た、私の頭脳《あたま》の内からは癩病《らいびょう》病院と血痕の木が中々《なかなか》離れない、二三の人にも出会ったものの、自分の下駄の音がその黒塀に淋しく反響して、恰《ちょうど》自分は何者かに追われておる様ないやな気持がするので、なるべく歩調を早めて歩き出した。
すると、突然自分の足に軽く触れたものがある、ゾーッとしたので見ると、一|疋《ぴき》の白い蝶だ、最早《もう》四辺《あたり》は薄暗いので、よくも解らぬけれど、足下《あしもと》の辺《あたり》を、ただばたばたと羽撃《はうち》をしながら格別《かくべつ》飛びそうにもしない、白い蝶! 自分は幼い時分の寐物語《ねまのかたり》に聞いた、蝶は人の霊魂《たましい》であるというようなことが、深く頭脳にあったので、何だか急に神経が刺戟されて、心臓の鼓動も高ぶった、自分は何だか気味の悪《わ》るいので、裾《すそ》のあたりを持って、それを払うけれど、中々《なかなか》逃げそうにもしない、仕方なしに、足でパッと思切《おもいき》り蹴って、ずんずん歩き出したが二三|間《げん》行《ゆ》くとまた来る、平時《いつも》なら自分は「何こんなもの」と打殺《ぶっころ》したであろうが、如何《どう》した事か、その時ばかりは、そんな気が少しも出ない、何というてよいか、益々《ますます》薄気味が悪《わ》るいので、此度《こんど》は手で強く払って歩き出してみた、が矢張《やっぱり》蝶は前になり後になりして始終私の身辺に附いて来る、走ってみたらと思ったので、私は半町《はんちょう》ばかり一生懸命に走ってみた、蝶もさすがに追ってこられなかったものか、最早《もう》何処《どこ》にも見えないので、やれ安心と、ほっと一息付きながら歩き出した途端、ひやりと頸筋《くびすじ》に触れたものがある、また来たかとゾーッとしながら、夢中に手で払ってみると、果《はた》せるかな、その蝶だ、もう私も堪《た》え兼《か》ねたので、三|町《ちょう》ばかり、向《むこ》う見《み》ずに馳《か》け出して、やっとのことで、赤羽橋まで来て、初めて人心地《ひとここち》がついた、清正公《せいしょうこう》の此処《ここ》の角を曲ると、もう三田の夜店の灯《ひ》が、きらきら賑《にぎや》かに見えたのだ、この時には蝶も、あたりに見えなかった、が丁度《ちょうど》その間四五|町《ちょう》ばかりというものは、実に、一種何物かに襲われたかのような感《かんじ》がして、身体《からだ》が、こう何処《どこ》となく痳痺《まひ》したようで、とても言葉に言い現わせない心持《こころもち》であった、しかし、それからは先《ま》ず無事に家へ帰ったものの、今日《こんにち》まで、こんな恐ろしい目に出会った事は未《いま》だにない、今でも独りで居て偶々《たまたま》憶出《おもいだ》すと、思わず戦慄するのである。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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