子供の霊
岡崎雪聲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)丁度《ちょうど》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三日|後《のち》
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私が十三歳の時だから、丁度《ちょうど》慶応三年の頃だ、当時私は京都寺町通《きようとてらまちどおり》の或る書房に居たのであるが、その頃に其頃《そこ》の主人夫婦の間に、男の子が生れた。すると奇妙なことに、その子に肛門がないので、それが為《た》め、生れて三日目の朝、遂《つい》に死んでしまった。やがて親戚や近所の人達が、集《あつま》って来て、彼地《あちら》でいう夜伽《よとぎ》、東京《とうきょう》でいえば通夜《つや》であるが、それが或《ある》晩のこと初《はじま》った。冬の事で、四隣《あたり》は至《いたっ》て静かなのに、鉦《かね》の音《ね》が淋しく聞《きこ》える、私は平時《いつ》も、店で書籍が積んである傍《かたわら》に、寝るのが例なので、その晩も、用を終《しま》って、最早《もう》遅いから、例の如く一人で床《とこ》に入った。夜が更《ふ》けるにつれ、夜伽《よとぎ》の人々も、寝気《ねむけ》を催《もよお》したものか、鉦《かね》の音も漸々《ようよう》に、遠く消えて行くように、折々《おりおり》一人二人の叩くのが聞《きこ》えるばかりになった。それは恰《あだか》も昔の七つさがり、即《すなわ》ち現今《いま》の四時頃だったが、不図《ふと》私は眼を覚ますと、店から奥の方へ行く土間の隅《すみ》の所から、何だかポッと烟《けむ》の様な、楕円形《だえんけい》の赤児《あかんぼ》の大きさくらいのものが、下からスーと出たかと思うと、それが燈心《とうしん》の灯《あかり》が薄赤く店の方の、つまり私の寐《ね》ていた、蒲団の裾《すそ》の方へ、流れ込んで映っている、ここに三尺ばかり開《あ》いてる障子のところを通って、夜伽《よとぎ》の人々が集《あつま》ってる座敷の方へ、フーと入って行った、それが入って行った後《あと》には、例の薄赤い灯《ひ》の影が、漸々《ようよう》と暗く蔭《かげ》って行って、真暗になる、やがて暫時《しばらく》すると、またそれが奥から出て来て、元のところへ来て、プッと消えた、私は子供心にも、不思議なものだとは思ったが、その時には決して怖ろしいという様な考《かんがえ》は、少しも浮ばなかった。よく見てやろうと、私は床《とこ》の上に起直《おきなお》って見ていると、またポッと出て、矢張《やっぱり》奥《おく》の間《ま》の方へフーと行く、すると間もなくして、また出て来て消えるのだが、そのぼんやりとした楕円形《だえんけい》のものを見つめると、何だか小さい手で恰《あだか》も合掌《がっしょう》しているようなのだが、頭も足も更《さら》に解らない、ただ灰色の瓦斯体《ガスたい》の様なものだ、こんな風に、同じ様なことを三度ばかり繰返《くりかえ》したが、その後《ご》はそれも止《と》まって、何もない。私も不思議なこともあるものだと、怪しみながらに遂《つい》その儘《まま》寐《ね》てしまったのだ。夜が明けると、私は早速《さっそく》今朝方見た、この不思議なものの談《はなし》を、主人《あるじ》の老母に語ると、老母は驚いた様子をしたが、これは決して他人へ口外をしてくれるなと、如何《どう》いう理由《わけ》だったか、その時分には解らなかったが、堅《かた》く止《と》められたのであった。ところが二三日|後《のち》、よく主顧《とくい》にしていた、大仏前《だいぶつまえ》の智積院《ちしゃくいん》という寺へ、用が出来たので、例の如く、私は書籍を背負《しょ》って行った。住職の老人には私は平時《いつ》も顔馴染《かおなじみ》なので、この時談《はなし》の序《ついで》に、先夜見た談《はなし》をすると、老僧は莞爾《にっこり》笑いながら、恐怖《こわ》かったろうと、いうから、私は別にそんな感も起《おこ》らなかったと答えると、それは豪《え》らかったが、それが世にいう幽霊というものだと、云われた時には、却《かえっ》てゾッと怯《おび》えたのであった。さあそれと聞いてからは、子供心に気味が悪《わ》るくって、その晩などは遂《つい》に寝られなかった。私の実際に見たのではこんな事がある。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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