た、前に云うのを忘れたがこの母に比して父という人は評判の好人物であったのだ、婢女《じょちゅう》の談《はなし》で兎《と》に角《かく》気になるから皆《みんな》に立合《たちあ》った蒲団《ふとん》の下を見ると、はたせるかな、二通の遺言状が出た、何時《いつ》書きしものか解《わか》らねど、ふるえた手跡《しゅせき》に鉛筆での走り書きで一通は、師匠の私へ宛てた今日《きょう》までの普通の礼を述べた手紙で、尚《なお》一通のは即《すなわ》ちこの父親に残したものであった、これは長いものだったが要を摘《つま》んで談《はな》せばまあこうである。
 妾《わたし》は頼みなき身をこのたより少なき無情の夫の家にながらえいる、最早《もはや》妾《わたし》の病《やまい》も到底《とうてい》治ることもあるまい、親たる父に未《ま》だ孝の道も尽《つく》さずして先だつ不孝は幾重《いくえ》にも済まぬがわたしは一刻も早くこの苦しい憂世《うきよ》を去りたい、妾《わたし》の死せる後《のち》はあの夫は、あんな人|故《だから》死後の事など何も一切《いっせつ》関《かま》わぬ事でしょう、また葬式|一切《いっさい》の費用に関しても、最早《もはや》自分の衣類道具も片なくなっている際《さい》でもあるし、如何《どん》な事をするかも知れない、が妾《わたし》は死しての後《のち》はあの安らかな世に行《ゆ》く様せめては一本の香烟《こうえん》を立ててもらいたいが、それも一度実家を出《い》でてこの家の妻となりしものが、死せる後《のち》再び父なる人の御世話になるのは、しに行《ゆ》く我心にとって誠に心よくないから、実は妾《わたし》にとっては何とも心もとないことだが時節なれば致方《いたしかた》ないと諦めて過日《すぐるひ》は日頃|愛玩《あいがん》の琴二面を人手に渡して、ここに金が六十円出来た、老いたる親に思いもよらぬ煩《わずらい》をかけて先だつ身さえ不幸なるに、死しての後《のち》までかかる御手数をかけるは、何とも心苦しいが、何卒《なにとぞ》この金を以《もっ》て、妾《わたし》の身は貴下《あなた》の手から葬式をして一本の御回向《ごえこう》を御頼み申《もうし》ます。憶出《おもいだ》せばこの琴はまだ妾《わたし》が先生の塾に居《お》った時分|何時《いつ》ぞや大阪《おおさか》に催された演奏会に、師の君につれられて行く時、父君《ちちぎみ》が妾《わたし》の初舞台の祝《いわい》にと買い賜《たま》われたものだ、数千《すせん》人の聴客を以《もっ》て満たされた、公開堂《こうかいどう》の壇上、華かなる電燈の下で、満場の聴衆が喝采《かっさい》の内に弾きならしたはこの琴であります、またこの一|面《めん》は過ぎし日|妾《わたし》が初めて、自宅《うち》にて教授をする時に妾《わたし》の僅《わず》かなるたくわえにて購《あがな》いしもので、二面共に妾《わたし》にとっては忘る可《べか》らざる紀念《きねん》の品である、のみならず、この苦しく悲しき長《なが》の月日のこの中外《うちそと》を慰めたのもこの品、仮令《たとえ》妾《わたし》には数万金《すまんきん》を積むとてかえがたき二品《ふたしな》なれど、今の際《きわ》なれば是非も一なく、惜しけれど、終《つい》に人手にわたす妾《わが》胸中は如何《いか》ばかり淋しき思《おもい》のするかは推《すい》したまわれ、されど、たとえ人手に渡さばとて、やがてこの二面の琴は、師の君が同門の人に由《よ》りて購《あがな》わるることを保証します。自分は今この二品《ふたしな》の琴樋《ことひ》の裏に貼紙をなして妾《わたし》の日頃|愛玩《あいがん》せることを記しおきければ、やがて、その人に由《よ》りて、これを知らるるでありましょう、これは今より確言《かくげん》をしておきます……
 他《た》に未《ま》だ何か記してあったが、遺書の大体の意味はこういうのであった。
 談《はなし》変って、私は丁度《ちょうど》その八月十九日に出発して、当時は京都から故郷なる備中連島《びっちゅうつらじま》へ帰省《きしょう》をしていた薄田泣菫《すすきだきゅうきん》氏の家を用向《ようむき》あって訪ねたのである、そして、同氏の家に三日ばかり滞在していた、ところが、その廿一日《にじゅういち》の夜には、氏の親戚を初め近隣の人々を集めて、或る場所で自分の琴を聴かした、十時少し前後演奏が終りて、私は同氏の家へ帰って泣菫氏と共に、枕を並べて寝《しん》に就《つ》いた、
 すると恰《あだか》も十二時過ぎたかそれとも十二時頃だったか、私の寝ていた傍《そば》の床《とこ》の間《ま》に立て懸けておいた、琴が突然音を立てて鳴り出したのである、泣菫氏は最早《もう》よく寝ていたので、少しも知らぬ、室内には、薄燈《うすあかり》がついていたので、私は驚きながらも枕から頭《かしら》を擡《もた》げて、何《いず》れの糸が鳴
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