当時流行のたて方でたてられたものであろう。八〇一年には僧|最澄《さいちょう》茶の種を携え帰って叡山《えいざん》にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族|僧侶《そうりょ》の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。宋の茶は一一九一年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西《えいさい》禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所京都に近い宇治《うじ》は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。南宋の禅は驚くべき迅速をもって伝播《でんぱ》し、これとともに宋の茶の儀式および茶の理想も広まって行った。十五世紀のころには将軍|足利義政《あしかがよしまさ》の奨励するところとなり、茶の湯は全く確立して、独立した世俗のことになった。爾来《じらい》茶道はわが国に全く動かすべからざるものとなっている。後世のシナの煎茶《せんちゃ》は、十七世紀中葉以後わが国に知られたばかりであるから、比較的最近に使用し始めたものである。日常の使用には煎茶が粉茶に取って代わるに至った、といっても粉茶は今なお茶の中の茶としてその地
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