茶園、あらゆる変わった茶器、および茶道具のさし絵が書いてある。最後の章は不幸にも欠けている。
茶経が世に出て、当時かなりの評判になったに違いない。陸羽は代宗《だいそう》(七六三―七七九)の援《たす》くるところとなり、彼の名声はあがって多くの門弟が集まって来た。通人の中には、陸羽のたてた茶と、その弟子《でし》のたてた茶を飲み分けることができる者もいたということである。ある官人はこの名人のたてた茶の味がわからなかったために、その名を不朽に伝えている。
宋代《そうだい》には抹茶《ひきちゃ》が流行するようになって茶の第二の流派を生じた。茶の葉は小さな臼《うす》で挽《ひ》いて細粉とし、その調製品を湯に入れて割り竹製の精巧な小箒《こぼうき》でまぜるのであった。この新しい方法が起こったために、陸羽が茶の葉の選択法はもちろん、茶のたて方にも多少の変化を起こすに至って、塩は永久にすてられた。宋人の茶に対する熱狂はとどまるところを知らなかった。食道楽の人は互いに競うて新しい変わった方法を発見しようとした、そしてその優劣を決するために定時の競技が行なわれた。徽宗《きそう》皇帝(一一〇一―一一二四)はあま
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