やうである。このつひでに山王様まで行くことにする。
詩人が来た頃よりずつと以前、まだ私が仕立屋のじまんの林檎をたべたり、氷川様の樹かげの茶店で涼みながら駄菓子のすだれやうかんを食べたりしてゐる時代、時たまはそこからずつと遠征して(妹や弟の婆やとお守りさんの同勢五人で)山王様へ遊びに行つたこともある。氷川様より遠方だし、どことなく封建制のきうくつな世界が子供心にも感じられて、私はあまり賛成ではなくても、毎日の氷川様の避暑に倦きて大人たちに誘ひ出されて行くのだつた。今の溜池のあの辺がずつとお池になつてゐて、(その泥水の池にはたぶん蓮が首を出してゐたやうに思ふのだが、はつきりしない)お舟で向うの岸まで渡して貰つた。それもたのしい冒険の一つで、それから麹町の方に向いた表門ではなく、赤坂に向いた裏門からのぼつて行つた。古びた丸木の段々の山みちを幾曲りもまがつてのぼると、上に茶店があつて遠目鏡をみせてくれた。その目鏡で私たちは向うの世界の赤坂や麻布の家々の屋根とその上の青い空も、白い夏雲も覗くことが出来た。それからお宮におさいせんを上げお辞儀をして、静かなつまらない神様だと思つた。お山じう遊んで歩いても氷川様よりは平地がすくないから落着かない感じだつた。星が岡茶寮のあの家がない時分、あそこはただ樹木だけの籔であつたのか、それとも宮司さんの住居があつたのか、何も覚えてゐない。いくつもの茶店のうちの一軒でお茶を飲みおだんごを食べる、婆やさんがおてうもくと呼んでゐる大きい銅貨を二つ三つ出してお菓子をいくつも買ひ、十銭位のお茶代を置いた。それは相当に使ひぶりの好いお客であつたのかもしれない。
帰りには歩きやすい広い段々を下りて表門の麹町の方の小路から帰つて来て泥水のお池のところまでくる。渡し賃を払つてお舟に乗ると船頭さんは棹をううんと突つぱりお舟が出る。ひろい池の向うの岸には大勢の客が舟の着くのを待つてゐて、そして泥水のそこいらじうに蓮の葉があつたやうに覚えてゐる。岸についてから、弟と妹は大人の背中があるけれど私だけはいやいやながら歩いて、今の黒田家の前あたりを通り、箪笥町から谷町をまがつて鹿島《かじま》といふ大きな酒屋の前から右へだらだら坂を上がり、麻布三河台のかどの私の家までたどるのである。ずゐぶんよく歩いたものだとをさないものの小さい足を今あはれに思ひやる。とほい過去はすべて美しく愉しく思ひ出されるといふけれど、私はその暑い日のどうにもならない暑さと倦怠、草臥れて泣きたいやうな不愉快な気分、それを愉しさよりはずつとはつきり思ひ出す、子供の世界は、すくなくとも私には、決して愉快なものではない。ただ一つ、未知の世界に踏み入る一歩二歩に好奇心がむづむづ動いて、それだけが愉しかつた。
底本:「燈火節」月曜社
2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:富田倫生
2008年10月14日作成
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