ゐたが、その町に私の家の仕立物をたのむ母と娘の仕立屋さんがゐた。その辺としては広い家で、古びた格子戸をあけると玄関の二畳があり茶の間の六畳が続いて、その奥に八畳、それから黒びかりする縁側、そのそとはかなり広い庭。三十坪か四十坪ぐらゐの庭にはいろいろな小さい木々が、桃や躑躅やかなめ、椿、藤、それから下草のやうなものがめちやに沢山しげつて、まん中に小さいお池があつた。それは水たまりといふよりはずつと立派なほんとうのお池で、緋鯉か金魚がゐたやうに覚えてゐる。そのお池の向うの、この庭のいちばん端のところに林檎の樹が二本あつて、大切に棚が出来てゐたやうである。古くからの日本りんごであつたから実が小さくて今の紅玉なぞの五分の一にも足りない大きさであつたが、仕立屋のお母さんは大事に大事にして、私なぞ子供のお客が行くとそれを取つて来て、皮をむいて小さく切つて小楊子をつけて出してくれた。この人たちは士族の家の後家と娘で非常にお行儀がよく、その林檎もきれいな青つぽい皿につけておぼんに載せて出したやうだつた。林檎のすつぱいこと、すつぱいこと、泣きたいやうなその味も、さてこの林檎がどんなに珍らしい物であるかをお母さんがうちの婆やさんに幾たびも話してきかせるから、子供ごころに大へん尊いものと思つていただいた。ほかの駄菓子やおせんべいも御馳走になつたのだけれど、ほかの物は何も覚えてゐない、ただ酸つぱい林檎は今でもその仕立屋の家を思ひ出させる。その後家さんと娘は近所の女の子たちに裁縫を教へ仕立物も引受けてほそぼそと静かに暮してゐたのであらうが、満ち足りた、賑やかな、愉しさうなあの態度は今のこの国の内職組に見せたいやうである。あの頃の士族、徳川様の御直参といふ人たちは何か後に反射する過去の光をひきずつてゐたやうで、悲しく優美な背景は現代の斜陽族の比ではなかつた。洗ひ張りした黒つぽい縞のはんてんと縞の前掛、浅黄や紫の小ぎれを縫ひ合せたたすき、そんなつつましさと落着は今日でも思ひ出される。質素に愉しく生きるすべをよく知つてゐた彼等である。
 仕立屋さんの背後の丘、つまり氷川台の方はすばらしく名家ぞろひの丘で、N男爵の一万坪以上もある別邸、A海軍中将の明るい洋風の屋敷、その隣りもS子爵の別邸、たつた三軒の家で何万坪かの面積をしめてゐた。そこを通り越すと右へ谷町の方に下りる坂、左へ折れると屋敷町で勝伯爵や九條公爵の家々があつたが、今そんなとこまで私は行くのではない。A海軍中将の家のことである。A中将は軍人ながら大変な金持で下町の神田日本橋辺にも沢山の土地を持つてゐるといふ噂であつた、もう疾くに隠居して西洋の軍人みたいにのびのび暮してゐるのだつたが、屋敷の一部を割いて立派な西洋館で外人向きの大きな貸家を二軒ほど持つてゐて、内外の名士に貸してゐたらしいが、私が思ひ出すのは、或る時イギリスの詩人サア・エドウィン・アーノルドが日本に来てその家にしばらくゐたことである。詩人は令嬢を連れてゐた。
 その時分(仕立屋にお使に行つた頃よりずつと後のことである)私のゐた女学校はカナダ人が建てたものだから、当時イギリス第一といわれてゐた詩人に講演を頼んだ。私たち子供は何も分らず、ただ有名な詩人と聞いてどんなにスマートな人だらうと内々期待して講堂に出てみると、もう好いかげんなをぢさん顔の人で(五十代であつたらうと思ふ)背があまり高くはなく、顔はどことなくロシヤ人のやうな厚みがあつた。講演なんぞしたところで十七八をかしらの女学生に分りつこないのだから、詩人は自作の詩を読んだ。私たちにわかるのは一節一節のをはりに「ハナガサイタ、ハナガサイタ」といふ日本の言葉だけであつた。猫に小判といつたやうに、もつたいないけれど何も分らなかつたが、それでも、今でもその「ハナガサイタ」を覚えてゐるのはふしぎである。やはり、詩人の好い言葉であつたのだらう。
 詩人はずつと前に夫人を亡くして独身であつた。詩人の大家さんであるA家の令嬢に恋を感じて日本むすめの彼女を讃美する詩を書いたといふ評判だつたが、どんな詩であるか私たち子供はむろん知らなかつた。詩人がプロポーズしたといふ噂もほんのり聞いたけれど、A令嬢は現代の娘たちとはまるで違つてじつに落ちつき払つた美人であつたから、だれもその噂の真偽を伺ふことはしなかつた。彼女はその時分私と同じ学校の三つぐらゐ上の級であつたが、間もなくそこを止めて上野の音楽学校にかはつた。琴もピヤノもうまかつたが琴の方では作曲もした、後日結婚してから助教授になつて研究を続けてゐたが、夫が実業家としてだんだん多忙な生活をするやうになつて彼女も純粋な家庭人となつたやうに聞いてゐる。さて私のおもひでは軽井沢の豚料理や桃の砂糖漬から飛んで麻布の仕立屋にゆき、仕立屋のうしろの高台まで行つてくたびれた
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