少し歩いてから「死ぬ相談じやないでせうか?」と私がいふと「だいじよぶでせう」とFが言つた。(どうしても死ぬつもりのやうに心に懸つてゐたので、その後一週間ぐらゐ新聞を充分気をつけて見てゐたが、松島で心中した人の事はどこにも出てゐなかつたから、ほんとうに、だいじよぶだつたらしい)。
 橋を渡つて帰つて来てホテルから遠い方の渚を歩き、そこから街道をよこぎつて瑞厳寺に行つた。大門は開かれてゐたが、何か置きわすれられたやうにさびしい感じで、その辺に散り積つた松葉はさび[#「さび」に傍点]を見せるよりは、荒廃した国土のごみの吹きたまりのやうに見えて、なさけない気持ですぐ戻つて来た。途中おみやげを売る店で松島の絵のついた箸や楊子入をいくつも、それから貝細工のきれいな椿の花の帯止を二つ買つた。一つはCに、もう一つは大森の家に留守居してゐる若い人のために。
 もう一度ホテルで休んでお茶をのみケーキをたべて、ほんとに好いホテルだと思つた。帰りの電車を塩釜で下りた。ちやうど夕方で、道路にも橋にも魚のにほひがいつぱいに流れ、いますぐ前に荷上げされた魚が山のやうに投げ出された市場の前を通りすぎると、あまり人には出会はずその辺は魚だけの世界と見えた。
 塩釜様へ行く道は左手に川が流れて片側だけの街であつたが、たいそう賑やかであつた。塩釜様のお山の杉の樹々は下の谷からまつすぐに空を被ふやうにそびえてゐたが、坂道はなだらかで昇りはらくだつた。のぼりきつた広場からさらにお宮の石段を上がらうとして振りかへると、遠い海に夕空が紅く反射して、いざり舟がぽつぽつ小さく浮んで、どの舟にもかがり火が見え、歌よみが歌を詠みさうな優にやさしい景色であつたが、見てゐるうちに空がすこしづつ暮れていつた。ちやうどその時お宮の門がしまつた。
 仙台行の電車が通つてしまつたあとで私たちは駅にもどつて来たので、時間のあるあひだ明るい灯の町を歩いてみた。東北第一のこの港は景気の好い漁師たちのために賑つて、金物屋、洋品店、古着屋、雑貨店、林檎の店、飲屋、すしや、喫茶店、一品料理、おでんや、何もかも繁昌して気持がよかつた。貧乏人なんてものはこの世に存在しないかと思はれるやうで、見物して歩く自分のともしさなぞは忘れてゐた。ここで私はうれしい掘出しものをした、漁師か農村の人が買ふのらしい十一文の手縫ひの地下足袋であつた。三足あつたのがすぐ売れてたつた一足残つたのだと店で言つてゐた。この雑貨店は古着、洋服、シヤツ、シヤベル、靴、婦人用の日傘まで並んでゐた。その隣りがこの町いちばんの菓子屋なのだが、もう夜だから干菓子しかなかつた。
 コンクリの段々を上がつて高いホームに電車を待つてゐると、まぶしく明るい灯の港である。むかし在原の業平が河原の左大臣の家を訪ねると「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに」の歌を詠んだこの左大臣は塩釜の土地の景色を庭に作つてゐた。業平はその庭を見て「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣りする舟はここに寄らなむ」と一首の歌を詠んで家のあるじに敬意を表したといふ話である。その河原の左大臣|源融《みなもとのとほる》はわかい時分に陸奥の按察使《あぜち》として行かれた土地の中でも、この港の景色を殊に恋しく思ひ出されてその豪しやな河原の院の庭を作つたのであらう。広い池には毎月三十石の潮を難波から汲み運ばせ、魚や貝類を住ませ、塩釜を作つて汐をやかせたといふほどの心の入れ方であつた。その頃のこの港はどんなに明るくどんなに寂しく、漁師たちの小舟がのどかに出入りしてゐたことであらう。塩をやく煙もうすく見えてゐたらう。さう思つて私はこの賑やかな港を見てゐた。
 この日あるき廻つて少しくたびれたのでその後二三日は遠くへは出ずにゐた。
 市内の三越支店と藤崎デパートにはもう東京に見えなくなつた物がまだ沢山並んでゐた。鐘紡の仙台支店は銀座のつながりのやうにモダンで、自慢の食堂はだんだん貧しく苦しくなりつつある国に一つ残された休息所のやうに思はれて、私はたびたび行つて見た。それはランチやコーヒーや洋菓子だけのためではなく、過去につながる豊かな物への悲願でもあつたらうか。一ばん好ましく思つたのは丸善の店。本や雑誌は残りすくなくなつてゐたが、洋品雑貨、石けんでも香水でもおしろいでも、スートケース、銀貨入、かうもり、日傘、何もかも外国のにほひのする物ばかり、いくさの国が一息に粉砕してしまひさうな物ばかりで、それを見るほどに、手に持つて見るほどに、だんだんかなしくなつて来た。旅費の都合がゆるさないから、小さい香水ぐらゐをKにおみやげに買つただけであつた。
 少し遠いけれど、ふんぱつして中尊寺に行つて見ませうと言はれて、非常に遠いところにゆくやうな気持で出かけた。汽車はからつぽのやうにすいてゐた。もうこの辺から岩手県といふあ
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