願した。お国のために、こちらのお庭に貯水池を掘らなければ、三丁目には他に適当な場所が一つもないと言つて、それを私が断れば、お国が困るのだといふやうな意味の話をした。では、私の家のほかにも個人の庭で貯水池をお掘りになつたところがございますかと訊くと「あります。山王二丁目のK伯爵邸の、御門から玄関にゆく中途のところに。もうこれは出来ました。今のところではK伯爵邸のほかは神社の空地ばかりです。これは一つ御承知を願つて、その代り私どものできる事で御便宜を計らうと思ひますが」ともう私が承知したやうに話しかけた。今の斜陽階級といふやうなさびしい言葉はまだ生れなかつたその頃の伯爵邸は町のほこりであつたから、町会長はたとへ貯水池一つでも私の家がその伯爵家や神社と軒並にとり扱かはれることを私のためにも非常な光栄だと思ひ込んでくれたのだつた。「平和になつた時に、その穴はどうなるのでせうか?」と、あはれな私は敗戦国にならないで日本に平和が来る日もあると思つて、訊いてみた。「それはむろん区役所の方で人夫をよこして元どほりに埋めるさうですから、後日の事は御心配なく」と言つた。かういふ話を私ひとりでがんばつて受け
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