地山謙
片山廣子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)象《かたち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)内|卦《くわ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「竹かんむり/弄」、第3水準1−89−64]
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 Tが私のために筮竹や※[#「竹かんむり/弄」、第3水準1−89−64]木を買つて来て、自分で易を立てる稽古をするやうすすめてくれたのは、もうずゐぶん古い話であつた。お茶やお花のやうに易のお稽古をするといふのも変な言ひかたであるけれど、初めのうち私はほんとうに熱心にその稽古を続けてゐた。易の理論は何も知らず、内|卦《くわ》がどうとか外|卦《くわ》がかうだとか予備知識をすこしも持たず、ただ教へられたまま熱心にやつてみた。
 そのずつと前から、私は易を信じて事ある時には大森のK先生のお宅に伺つて占断をお願ひしてゐたので、火[#「火」に傍点]とか水[#「水」に傍点]とか、天[#「天」に傍点]や地[#「地」に傍点]や風[#「風」に傍点]や、雷[#「雷」に傍点]も沢[#「沢」に傍点]も山[#「山」に傍点]も、さういふ象《かたち》だけはどうにか知つてゐて、おぼつかない素人易者はただもう一心に筮竹を働かしたが、そのうちに筮竹をうごかすことが非常に骨が折れて来て、人に教へられたまま小さい十銭銀貨三つを擲げてその裏面と表面で陰と陽を区別し、六つの銀貨を床《ゆか》に並べてその象《かたち》が現はれるままをしるした。この方が大そうかんたんであつた。
 自分自身の身上相談をしたり、他人の迷ふことがあれば、それについて教へを伺ふこともあつて、私のやうなものがめくら滅法に易を立てて見ても、ふしぎに正しい答へが出た。また或るときはどうにも解釈のむづかしい答へもあつた。ある時、自分の一生の卦《け》を伺つてみようと思つたが、何が出るかその答へには好奇心が持てた。若い時から中年までの私の仕事はおもに病気と闘ふことであつたから(自身の病気でなく、良人の父の病気、良人の長い病気、義妹の長い病気、義弟の病気、それにともなふ経済上の努力、私はまるで看護婦の仕事をしに嫁に来たのだと、それを一種の誇りにも思つて殆ど一生そんな方面の働きばかりしてゐた。)たぶん私の一生の卦《け》は「地水帥《ちすいし》」が出るのではないかと心に占つてゐた時、意外にも答へは「地山謙《ちざんけん》」であつた。私はおもはずあつと驚いて、頭を打たれたやうに感じたのである。
[#ここから2字下げ]
「謙《けん》は亨《とほ》る。君子終り有り吉《きつ》。○彖伝《たんでん》に曰く、天道は下《くだ》り済《な》して光明。地道は卑《いやし》くして上行す。天道は盈《みつ》るを虧《か》きて謙に益《ま》し、地道は盈るを変へて謙に流《なが》し、鬼神は盈るを害して謙に福《さいは》ひし、人道は盈るを悪みて謙を好む。謙は尊くして光り、卑《いやし》くして踰《こ》ゆべからず。君子の終りなり。」
[#ここで字下げ終わり]
 謙は却ち謙遜、謙譲の謙《けん》で、へりくだることである。高きに在るはづの艮《ごん》の山が、低きに居るべき坤《こん》の地の下に在るのである。たぶん私は一生のあひだ地の下にうづくまつてゐなければならない。「労謙す、君子終り有り吉」といふのは地山謙の主爻《しゆかう》の言葉である。頭を高く上げることなく、謙遜の心を以て一生うづもれて働らき、無事に平和に死ねるのであると解釈した。何よりも「終り有り吉」といふ言葉は明るい希望をもたせてくれる。何か困るとき何か迷ふ時、私は常に護符《ごふ》のやうに、謙《けん》は亨る謙は亨るとつぶやく、さうすると非常な勇気が出て来てトンネルの路を掘つてゆく工夫のやうに暗い中でもコツコツ、コツコツ働いてゆける。この信仰は迷信ではない、むしろ常識であると思ふが、私のやうにわかい時から夢想をいのちとして来た人間がこの平凡な教訓を一日も忘れずにゐられるのはさいはひである。六十四卦の中でこの「地山謙」だけがどの爻《かう》にも凶が出ず、その代りどの爻《かう》も謙を守つて終りをまつたくするといふ約束を持つてゐる。その堅実な地味な約束が、およそ堅実でない私のための一生の救ひでもあるのだらう。私のためには天[#「天」に傍点]もなく火[#「火」に傍点]もなく風[#「風」に傍点]もないのである。それで満足してゐよう。



底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:林 幸雄
2009年8月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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