に行つてもよいやうな、すこし寂しい歩きぶりだつた。現代人は、モダアンな人たちは、みんなその日暮しの気分かしらと思つて私はしばらく見送つてゐた。
 その夜眠る前にまたその美人を考へて、誰かあれに似てゐる人があつたやうだと思つてみたが、誰だか思ひつかないで寝てしまつた。日本人でないやうな眼つきをして、独立独歩といふやうな姿でゐて、どこかたよりない気持を撤きちらしてゆく美しい人、それきり思ひ出せないでゐたが、今日何のはずみか古いリリスの伝説を考へたのである。たぶんあの先日のむすめはリリスに似てゐるのだらうとふいと思つた。現代人の半分はその日ぐらしの気分で生きてゐると聞いてゐたが、渋谷で見たあの人はその尖端を行く人だらう、むかしのリリスもその日暮しであつたから、たぶん彼女のやうな容姿《すがた》であつたのだらう。
 そんな事が頭にうごいた拍子に、私は今日の貧乏生活が非常にありがたく新しいものに思はれ出した。裸かのまづしい日々に、何か希望をもち、そして失望し、また希望し工夫をし、溜息をし、それを繰り返しくり返して生きることは愉しいと私は急に元気が出た。



底本:「燈火節」月曜社
   2004
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