古い伝説
片山廣子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)容姿《すがた》
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 いつ、どんな本で読んだ伝説かはつきり覚えてゐない、夢のなかでどこかの景色を見て、蒼ぐらい波の上に白い船が一つみえてゐたやうに、伝説の中の女の姿を思ひ出す、美しい女である。世界最初の女、イヴよりもずつと前にこの世界にゐた美しいリリスである。
 神は七日のあひだに、つまり七千年か七万年か計算することはむづかしいが、天地とその中の万物をお造りなされて、その創作のすべてをよしと御らんになつた。何もかも御心にかなつて美しくいさぎよい物ばかりであつたが、まだ何か足りないやうだつた。わが創作のすべての物よりもつと美しい、もつとわが姿に似たものを一つだけ造つてみよう。それはわが友だちと思つてもよいほどの高貴なものであれと、すべての花より鳥より、木草より、星より月より太陽より、海の波より、山々の霧よりもつとうつくしい優しいもの、もつと華奢なもの、つまり女をお造りなされて、これに神の息を吹きこまれた。だが天地万物と同じやうにこの女には魂を与へられなかつた。女はリリスと呼ばれた。
 魂をもたないリリスは凡ての歓びにみち足りてただ一人イデンの園に生きてゐた。四季の花は咲き、果実も草の実も欲しい物は何でもあつた。鳥たちもけものたちもかれらの声と言葉を以てリリスに仕へ、星のきらめく夕方は神の子たち(天使といはれる種族)が天から地上に遊びに来た。かれらには彼らの声と言葉があつて、天上の友だちや地上の友だちでリリスは寂しいことを知らないでゐた。さうやつて何時を限りとなくリリスは楽園の花のやうに生きてゐたが、満ち足りた彼女には希望がなかつた、だから失望も知らなかつた。しぜん、悲しみを持たないのだつた。リリスは何年か何千年かかうして暮してゐるうちに、ほのかに一つの感情を味つた。それはくたびれたのである。不足のない悲しみのない幸福にくたびれて、ある時彼女ははじめて溜息をついたのであつた。夕風のやうに静かな音もしないものであつたけれど、神のお耳にリリスの溜息がそうつと届いた。あきらかにこの創作が失敗の作であることを神はお悟りになつて
「リリスよ、あはれな物よ、草臥れたのか? 消えてよろしい、消えよ」とおつしやつた。リリスはそのとき白い波の立つ海辺を歩いてゐたが、たそがれる海の色がリリスの眼に映つた
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