、ぢきに育ての母をきめてその母にたのむ、少し生長すると、名高い武術者の家に送り勇士としての教育を受けさせる。病人があれば、外科も内科も広い家を持つてゐてそれぞれの病人を預かり、深い知識によつて木草の汁を集めた薬を与へ、助手や女の助手が大ぜいで看護する、まことに万事ぬけめなくその集団生活が続けられてゐるのである。その物語の金髪の姫の美しさよりも花むこの勇ましい姿よりも、原始人の集団のなごやかさが限りなく好ましく読者の心を捉へる。曾てわが国でも大和のある宗教の本部で原始のやうな集団生活を宗教の力でつづけてゐたやうであつたが、そこには信仰と服従と労働だけで、愉しさや豊かさはなかつたのであらうと思はれる。敗戦の国の現在では無数の老人老女がおのおの別々の小さいうば捨山に籠つてあぢきない暮しをしてゐる。彼等も古い伝説のやうな裕かな大きな生活の中に捲きこまれてゐたならば、静かに日光浴をしたり、木の実を拾つたり、めいめいの仕事を持ち自信を持つて余命を送り得たであらう、さういふのは愚痴であるが、とにかくどれだけ深くつよく物の尊とさが私たちの心に浸みこみ、空想や夢や休息が死にたえてしまつたのかと、自分ひとりの心にかへりみて悲しくなる。そこで伝説はいま読まないことにする。
長い間の私のアイルランド文学熱がさめて後も、何年となく私を楽しませてくれたレノツクス・ロビンスンの戯曲が一冊もこの家に持つて来てないのはどうしたことだらう。農民劇ではなくアメリカあたりに材をとつた彼の大衆向のものが好きなのである。たぶん小説家たちの物と一しよに馬込の家に残して来たものと思はれる。いま私の手もとにはごく少数の戯曲集それも後進の作家たちの本があるだけである。さういふ本の中に畑ちがひのジエームス・ジヨイスのたつた一つの戯曲「追放者《エキザイル》」が交つてゐた。
ジヨイスほどの世界的の小説家もこの戯曲はたぶん私の家に並んでゐる農民劇の作家たちの中に交ぜておいても失礼ではないだらう。長篇「ユリシス」で暴風のやうに世界を吹きまくつた彼ではあるけれど、戯曲はあまり上手ではない。王朝時代の日本女性の日記に書かれたやうなもたもたした気分が一ぱいで主客の人物はことごとく追放されても惜しくないやうな人たちである。昔の日本の女性作家の日記にうごきがのろかつたやうに、「追放者」の中にも動きがすくない。メンタルには充分にうごいて舞台のそとの過去と未来をほのぼのにほはせてゐるのだが、舞台の人物が動かずにゐることは誠にはがゆい。アイルランドの劇作家たちがみんなイプセンに学ぶところがあつたやうに、ジヨイスの作にもすこしばかり北欧の影は見えるけれど、その青い光やつよい息吹は感じられず、ただ頼りない物思ひのジエスチユアがあるだけである。恐らく宮本武蔵も剣のほかの道には拙ないものがあつたのであらう。一九一八年に「追放者」が出版されて、一九一四年に出た短篇集「ダブリンの人たち」よりも後のものである。このえらい作家のあまり秀れてゐない作品をみることも興味深いものと思つて私はこの本を読みかへした。それは靄のある大きな海のような気分のものでもある。ただ一人でひそひそと暮らす人間の心はひそひそと曲りくねつてゐるのであらう、私はひそひそとこの本のことを考へて、一人でおもしろがつてゐる。
いま私が考へるのは、ジヨイスがその沢山の作品をまだ一つも書かず、古詩の訳など試みてゐた時分、シングがまだ一つの戯曲も書かず、アラン群島の一つの島に波をながめて暮してゐた時分、グレゴリイが自分の領内の農民の家々をたづねて古い民謡や英雄の伝説を拾ひあつめてゐた時分、先輩イエーツがやうやく「ウシインのさすらひ」の詩を出版した時分、つまりかれら天才作家たちの夢がほのぼのと熱して来たころの希望時代のことを考へる。世界大戦はまだをはらぬ二十世紀の朝わが国は大正の代の春豊かな時代であつた。世は裕かで、貴族でもない労働者でもない中流階級の私たちは、帝劇に梅蘭芳の芝居を見たり、街でコーヒーを飲んだりして、太平の世に桜をかざして生きてゐたのである。大きな時間のギヤツプを超えて今と昔を考へて、まとまらない自分の心を一首の歌に托してみる。
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花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に
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惜しむのは季節の花ばかりではない、人間の青春ばかりではない。この古歌の中にある「花の色」のすべてを悲しみなつかしむのである。むかしの貴婦人は何とかしこくも短かくも詠み得たのであらう。第三句四句五句のたつた十九字でその歎きを一ぱいに詠つてゐるのである。
底本:「燈火節」月曜社
2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
1953(昭和28)年6月
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