詩を書いたり古典の翻訳をしたりして勉強してゐたパリの生活を打切つて、あらゆる文明からきり離された島に渡つて、殆ど原始人に近い素朴な島びとの生活の中に詩をもとめたのは、パリで初めて会つたアイルランドの詩人イエーツの誘ひがあつたからである。
 アラン島は三つの島々である。アランモル(北の島)は長さ九哩。イニッシマン(中の島)は直径三哩半ぐらゐで殆ど円形である。イニッシール(南の島)は中の島と同じやうな形でやや小さい。ガルウエイ市から三十哩位へだたつてその島々がある。
 シングはその三つの島々をわたり歩いて島びとの言葉を聞きおぼえた。アイリツシ語を習ひ、ゲエル語を習ひ、島の崖みちを歩いて古いよごれたキッチンに年寄たちとお茶を飲み、島びとが石ころだらけの土に葬られる葬式の会葬者ともなり、少女たちを案内に波のよせかへす洞あなをのぞいてみたり、舟着場に立つて出て行く舟を見送つたりして島の人たちと親しくした。盲目のマアチン老人と青年マイケルはシングと大へん仲よしになつて彼の研究を助けてくれた。
 アランに滞在中も時々彼はパリに行つてゐた。さういふ或る日、彼がガルウエイに上陸して汽車の駅まで荷物を運んでくれる人を探すと、ある男が来て荷物を背負つてくれたが、ひどく酔つぱらつてゐて町までの近みちだと言つて、くずれかけた建物や古い船の破片なぞ散らばつてゐる中をさまよひ歩いて、しまひにはシングの荷物を投げおろしてその上に腰かけてしまつた。「ひどく重い荷物だねえ、金《かね》がはいつてるんだらう?」「とんでもない、本ばかりさ」「やれやれ、これがみんな金《かね》だつたら、今夜ガルウエイで、だんなと二人ですばらしい宴会がやれるんだがなあ」三十分も休んでやうやくのこと、シングは彼に荷物を背負はせて町にたどりついたのである。まだ名もなく、わかいシングは身がるで放浪者のやうでもあつた。
 しかし、彼はついにダブリンに落着き、新しく建てられるアイルランド文芸座のためにイエーツやグレゴリイ夫人と共に劇作することになつた。それは一九〇二年ごろである、初めて書いたのが「海に行く騎手《のりて》」であつた。これは荒い海と闘ふ漁師たちの生活をアラン島の人々の言葉で書いたもの。それを手はじめに「谷かげ」「聖者の泉」「西の人気者」など矢つぎばやに書いたが、あまり丈夫でなかつた彼はひどく健康をいため、一九〇九年、三十七の年
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