てに保守主義ではなく、私のやうに親も家も何の取得もないやうな娘でさへ西洋人の学校を卒業したといふので、それを一つの手柄のやうに思はれて、(この時分は大方の上流令嬢たちは女子学習院か虎の門女学館に入学、中流の家では少数の頭の良いチヤキチヤキの娘だけがお茶の水といふやうな傾向であつた。)私の母に、あなたのお嬢さんは英語を習ひなすつてお仕合せだと思ひます。これからの世間はどんどん進んで行くのですから、外国語も一つ位はどうしても必要でせう。今はすべてが西洋風に反対してゐますけれど、やがて今と違つた時節もまゐりませう。私なぞももうすこし時間があればキヤット、ラツトからでも始めたいのですが。Hさんも英語を一生お役に立てなさるやうに、もつと勉強おさせになるのがよろしいと思ひますと言はれて、母はすつかり驚いて、あなたが西洋人の学校にはいつたのをほめて下さるのは田辺先生ぐらゐなものだねと笑つてゐた。
 その後先生は外出される日が多いので、留守居を置かれた。わかい後家さんで七八つの女の子をつれてゐる人だつた。八畳のお座敷の次の間も八畳で、茶の間兼寝室であつたが、留守居の人たちは食事する時と寝る時はこの部屋で、ひるまは玄関の三畳で針仕事をしてゐた。このお留守居はどこか地方の町方の人らしく意気な下町らしいところと田舎らしい質素な様子もあつて、好い人と思はれた。彼女が来てから半年とも経たないうちに、先生は不意に脳溢血で倒れて昏睡状体のまま十日ほど寝てをられたが、この人が細かに面倒を見て上げたのである。
 早くから他家に縁づかれたお妹さんも電報の知らせですぐ上京したけれど、久しいあひだ遠遠しくなつてゐたお姉さんの家の事は何も分らず、ただ枕もとに坐つてゐるだけのことで、私たちお弟子も毎日のやうに顔を出して二時間ぐらゐづつは先生の看病をして上げた。内親王がたをお教へしてゐた小川女史が唯一の親友であつたから、夜になるとたびたび顔を出され色々と相談して下すつた。お留守居の人から聞いたことだが、お妹さんが上京されてすぐに箪笥の抽斗や行李の中も立合ひの上で開けて見たけれど、小だんすの抽斗に郵便局の貯金帳があつて、三千なにがしのお金があるだけで、ほかにどこにも先生のお金が見えない、お妹さんが困つていらつしやると彼女が言つてゐた。先生のやうな聡明な方が、何十年も働らいて質素な暮しをつづけて、何処かに老後のため
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