ぢゃや》に休んだ。しかしその時には自分を始め誰一人霊廟を訪《と》おうというものはなく、桜餅に渋茶を啜《すす》りながらの会話は如何にすれば、紅葉派《こうようは》全盛の文壇に対抗することが出来るだろうか。最少《もすこ》し具体的にいえばどうしたら『新小説』と『文芸倶楽部《ぶんげいクラブ》』の編輯者《へんしゅうしゃ》がわれわれの原稿を買うだろうかとの問題ばかりであった。われわれはあまりにトルストイの思想とゾラの法則を論ずるに忙しかった。それから三年ならずして意外なる運命は自分の身を遠い処へ運び去って、また四年五年の月日は過ぎた。再び帰って来たとき時勢は如何に著しく昨日《きのう》と今日との間を隔離させていたであろう。
 久しく別れた人たちに会おうとて、自分は高輪《たかなわ》なる小波《さざなみ》先生の文学会に赴くため始めて市中の電車に乗った。夕靄《ゆうもや》の中《うち》に暮れて行く外濠《そとぼり》の景色を見尽して、内幸町《うちさいわいちょう》から別の電車に乗換えた後《のち》も絶えず窓の外に眼を注いでいた。特徴のないしかも乱雑な人家つづきの街が突然尽きて、あたりが真暗になったかと思うと、自分は直様《すぐさま》窓の外に縦横に入り乱れて立っている太い樹木を見た。蒼白《あおじろ》いガスの灯《ひ》と澄み渡った夜の空との光の中に、樹木の幹は如何に勢よく、屈曲自在なる太い線の美を誇っていたであろう。アメリカの曠野に立つ樫《かし》フランスの街道に並ぶ白楊樹《はくようじゅ》地中海の岸辺に見られる橄欖《かんらん》の樹が、それぞれの姿によってそれぞれの国土に特種の風景美を与えているように、これは世界の人が広重《ひろしげ》の名所絵においてのみ見知っている常磐木《ときわぎ》の松である。
 自分は三門前《さんもんまえ》と呼ぶ車掌の声と共に電車を降りた。そして前後左右に匍匐《ほふく》する松の幹の間に立ってその姿に見とれた時、幾年間全く忘れ果ててしまった霊廟の屋根と門とに心付いたのである。しかしその折にはまだ裏手の通用門から拝観の手続きをなすべき案内をも知らなかったので、自分は秋の夜の静寂の中《うち》に畳々《じょうじょう》として波の如く次第に奥深く重なって行くその屋根と、海のように平かな敷地の片隅に立ち並ぶ石燈籠《いしどうろう》の影をば、廻《めぐ》らされた柵の間から恐る恐る覗いたばかりであった。
 翌日《あくるひ》自分は昨夜《ゆうべ》降りた三門前で再び電車を乗りすて、先ず順次に一番|端《はず》れなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮《とうしょうぐう》に隣りする二代将軍の霊廟を参拝したのである。この事は巳に『冷笑』と題する小説中|紅雨《こうう》という人物を借りて自分はつぶさにこれを記述した事がある。
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「紅雨の最も感動したのは、かの説明者が一々に勿体《もったい》つける欄間《らんま》の彫刻や襖《ふすま》の絵画や金箔《きんぱく》の張天井《はりてんじょう》の如き部分的の装飾ではなくて、霊廟と名付けられた建築とそれを廻《めぐ》る平地全体の構造配置の法式であった。
先ず彎曲《わんきょく》した屋根を戴き、装飾の多い扉の左右に威嚇的《いかくてき》の偶像を安置した門を這入《はい》ると真直な敷石道が第二の門の階段に達している。敷石道の左右は驚くほど平かであって、珠《たま》の如く滑《なめら》かな粒の揃った小石を敷き、正方形に玉垣を以て限られた隅々に銅《あかがね》の燈籠を数えきれぬほど整列さしてある。第二の門内に這入ると地盤が一段高くしてあって第一と同じ形式の唯《た》だ少しく狭い平地は直様《すぐさま》霊廟を戴く更に高い第三の乃《すなわ》ち最後の区劃に接しているのである。此処《ここ》にはそれを廻《めぐ》る玉垣の内側が他のものとは違って、悉《ことごと》く廻廊の体《てい》をなし、霊廟の方から見下《みおろ》すとその間に釣燈籠を下げた漆塗の柱の数《かず》がいかにも粛々《しゅくしゅく》として整列している。霊廟そのものもまた平地と等しくその床《ゆか》に二段の高低がつけてあるので、もしこれを第三の門際《もんぎわ》よりして望んだならば、内殿の深さは周囲の装飾と薄暗い光線のために測り知るべくもない。
この建築全体の法式はつまり人間の有する敬虔崇拝の感情を出来得べき限りの最高度まで興奮させようと企てたものでしかも立派にその目的に成功した大《だい》なる美術的傑作品である。
紅雨は生涯忘れない美的感激の極度を経験したと信ずる巴里《パリー》の有名なる建築物に対した時の心持に思い較《くら》べて、芝の霊廟はそれに優るとも決して劣らぬ感激を与えてくれた事を感謝した。そればかりでなく、彼はまた曲線的なるゴチック式の建築が能《よ》くかの民族の性質を伝《つたえ》るように、この方形
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