花のほとりに先考所蔵の唐本《たうほん》を曝して誦読日の傾くを忘る。来青花その大《おほい》さ桃花の如く六瓣にして、其の色は黄《くわう》ならず白《はく》ならず恰も琢磨したる象牙の如し。而《しか》して花瓣の肉|甚《はなはだ》厚く、仄《ほのか》に臙脂の隈取《くまどり》をなせるは正に佳人の爪紅《つまべに》を施したるに譬ふべし。花心《くわしん》大《だい》にして七菊花の形をなし、臙脂の色濃く紫にまがふ。一花《いつくわ》落つれば、一花開き、五月を過ぎて六月|霖雨《りんう》の候《こう》に入り花始めて尽く。われ此の花に相対して馥郁たる其の香風《かうふう》の中《うち》に坐するや、秦淮《しんわい》秣陵《まつりよう》の詩歌《しいか》おのづから胸中に浮来《うかびきた》るを覚ゆ。今|試《こゝろみ》に菩提樹の花を見てよく北欧の牧野田家《ぼくやでんか》の光景を想像し、橄欖樹の花に南欧海岸の風光を思ひ、リラの花香《くわかう》に巴里《パリー》庭園の美を眼前に彷彿たらしむることを得べしとせんか。月の夜《よ》萩と芒の影おのづから墨絵の模様を地に描けるを見ば、誰かわが詩歌俗曲の洒脱なる風致に思到らざらんや。われ茉莉《まつり》素馨《そけい》の花と而してこの来青花に対すれば必《かならず》先考日夜愛読せし所の中華の詩歌|楽府《がくふ》艶史の類《たぐひ》を想起せずんばあらざるなり。先考の深く中華の文物を憬慕《けいぼ》せらるゝや、南船北馬その遊跡十八省に遍《あまね》くして猶足れりとせず、遥に異郷の花木を携帰《たづさへかへ》りてこれを故園に移し植ゑ、悠々として余生を楽しみたまひき。物|一度《ひとたび》愛すれば正に進んで此《かく》の如くならざる可からず。三昧の境《きやう》に入るといふもの即ちこれなり。われ省みてわが疎懶《そらん》の性遂にこゝに至ること能はざるを愧づ。



底本:「日本の名随筆1 花」作品社
   1983(昭和58)年2月25日第1刷発行
   2001(平成13)年3月20日第29刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一四巻」岩波書店
   1963(昭和38)年6月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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