を踊る踊子は戦争前には腰と乳房とを隠していたのであるが、モデルが出るようになってから、それも出来得るかぎり隠す部分の少いように仕立てたものを附けるので、後や横を向いた時には真裸体《まっぱだか》のように見えることがある。昨年正月から二月を過ぎ三、四月頃まで、この裸体と裸体に近い女たちの舞踊は全盛を極めた。入場料はその時分から六拾円であるが、日曜日でない平日でも看客は札売場《ふだうりば》の前に長い列をなし一時間近くたって入替りになるのを我慢よく待っていたものだ。しかし四、五月頃から浅草ではモデルの名画振りは禁止となり、踊子の腰のまわりには薄物や何かが次第に多く附けまとわれるようになった。そして時節もだんだん暑くなるにつれ看客の木戸前に行列するような事も少くなって来た。
 一座の中で裸体になる女の給金は、そうでない女たちよりも多額である。それなら誰も彼も裸体になるといいそうなものであるが、そんな競争は見られない。普通の踊子が裸体を勤める女に対して影口をきくこともなく、各《おのおの》その分を守っているとでもいうように、両者の間には何の反目もない。楽屋はいつも平穏無事のようである。
 踊子の踊の間々に楽屋の人たちがスケッチとか称している短い滑稽な対話が挿入される。その中には人の意表に出たものが時々見られるのだ。靴磨が女の靴をみがきながら、片足を揚げた短いスカートの下から女の股間《こかん》を窺《のぞ》くために、足台をだんだん高くさせたり、また、男と女とがカルタの勝負を試み、負ける度びに着ているものを一枚ずつぬいで行き、負けつづけた女が裸体になって、遂に危く腰のものまで取る段になって、舞台は突然暗転して別の場面になる。これらはその一例に過ぎない。いずれも戦争前のレヴューにはなくて、戦敗後の今日において初て見られるものである。世の諺にも話が下掛《しもがか》ってくるともう御仕舞《おしま》いだという。十返舎一九《じっぺんしゃいっく》の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い、滑稽の趣向も人まちがいや、夜這《よば》いが多くなり、遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる。戦後の演芸が下《しも》がかってくるのも是非がない。
 浅草の劇場では以上述べたようなジャズ舞踊の外に必ず一幕物が演ぜられている。
 戦争後に流行した茶番じみた滑稽物は漸くすたって、闇の女の葛藤《かっ
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