夜あるき
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夜《よる》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)程|明《あかる》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)歩み/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Il vient comme un complice, a` pas de loup; le ciel〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 余は都会の夜《よる》を愛し候《そろ》。燦爛《さんらん》たる燈火の巷を愛し候。
 余が箱根の月大磯の波よりも、銀座の夕暮吉原の夜半《やはん》を愛して避暑の時節にも独《ひと》り東京の家に止《とゞま》り居たる事は君の能《よ》く知らるゝ処に候。
 されば一度《ひとたび》ニユーヨークに着して以来到る処燈火ならざるはなき此の新大陸の大都の夜《よ》が、如何に余を喜ばし候《さふら》ふかは今更《いまさら》申上《まをしあぐ》るまでもなき事と存じ候。あゝ紐育《ニユーヨーク》は実に驚くべき不夜城に御座侯。日本にては到底想像すべからざる程|明《あかる》く眩《まばゆ》き電燈の魔界に御座候《ござそろ》。
 余は日沈みて夜《よる》来《きた》ると云へば殆ど無意識に家を出《い》で候。街と云はず辻と云はず、劇場、料理店、停車場《ていしやぢやう》、ホテル、舞踏場《ぶたうぢやう》、如何なる所にてもよし、かの燦爛たる燈火の光明世界を見ざる時は寂寥《せきれう》に堪へず、悲哀に堪へず、恰《あたか》も生存《せいぞん》より隔離されたるが如き絶望を感じ申候《まをしそろ》。燈火の色彩は遂に余が生活上の必要物と相成り申候。
 余は本能性に加へて又知識的にこの燈火の色彩を愛し候。血の如くに赤く黄金《こがね》の如くに清く、時には水晶の如くに蒼《あを》きその色その光沢の如何に美妙なる感興を誘《いざな》ひ侯ふか。碧《みどり》深き美人の眼の潤ひも、滴《したゝ》るが如き宝石の光沢も、到底これには及び申さず候。
 余が夢多き青春の眼には、燈火は地上に於ける人間が一切の欲望、幸福、快楽の象徴なるが如く映じ申候。同時にこれ人間が神の意志に戻《もと》り、自然の法則に反抗する力ある事を示すものと思はれ候。人間を夜の暗さより救ひ、死の眠りより覚《さま》すものはこの燈火に候。燈火は人の造りたる太陽ならずや、神を嘲《あざけ》りて知識に誇る罪の花に侯はずや。
 さればこの光を得、この光に照されたる世界は魔の世界に候。醜行《しうかう》の婦女もこの光によりて貞操の妻、徳行の処女よりも美しく見え、盗賊の面《おもて》も救世主の如く悲壮に、放蕩児《ほうたうじ》の姿も王侯の如くに気高《けだか》く相成り候。神の栄《さか》え霊魂の不滅を歌ひ得ざる堕落の詩人は、この光によりて初めて罪と暗黒の美を見出《みいだ》し候。ボードレールが一句、

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Voice le soir chermant, ami du criminel;
〔Il vient comme un complice, a` pas de loup; le ciel〕
〔Se ferme lentement comme une grande alco^ve,〕
〔Et l'homme impatient se change en be^te fauve.〕
[#ここで字下げ終わり]

「悪徒の友なる懐《いと》しき夜《よ》は狼の歩み静《しづか》かに共犯人《かたうど》の如く進み来りぬ。いと広き寝屋《ねや》の如くに、空|徐《おもむろ》に閉《とざ》さるれば心|焦立《いらだ》つ人は忽《たちまち》野獣の如くにぞなる……」と。余は昨夜も例の如く街に灯《ひ》の見ゆるや否や、直《たゞち》に家を出で、人多く集《あつま》り音楽|湧出《わきいづ》るあたりに晩餐を食して後《のち》、とある劇場に入り候。劇を見る為めには非ず、金色《こんじき》に彩《いろど》りたる高き円天井《まるてんじやう》、広き舞台、四方の桟敷《さじき》に輝き渡る燈火の光に酔《ゑ》はんが為めなれば、余は舞姫多く出でゝ喧《かしま》しく流行歌《はやりうた》など歌ふ趣味低きミユーヂカル、コメデーを選び申候。
 こゝに半夜を費《つひや》し軈《やが》て閉場のワルツに送られて群集と共に外に出《いづ》るや、冷《つめた》き風|颯然《さつぜん》として面を撲《う》つ……余は常に劇場を出でたる此の瞬間の情味を忘れ得ず候。見廻す街の光景は初夜の頃入場したる時の賑《にぎやか》さには引変《ひきか》へて、静《しづま》り行く夜《よる》の影深く四辺《あたり》を罩《こ》めたれば、身は忽然見も知らぬ街頭に迷出《まよひい》でたるが如く、朧気《おぼろげ》なる不安と、それに伴ふ好奇の念に誘はれて、行手も定めず歩み度き心地《こゝち》に相成り候。
 然り、夜深《よふけ》の街の趣味は、乃《すなは》ちこの不安と懐疑と好奇の念より呼び起さるゝ神秘に有之候《これありそろ》。既に灯《ひ》を消し、戸を閉《とざ》したる商店の物陰に人|佇立《たゝず》めば、よし盗人《ぬすびと》の疑ひは起さずとも、何者の何事をなせるやとて窺ひ知らんとし、横町《よこちやう》の曲り角に制服いかめしき巡査の立つを見れば、訳もなく犯罪を連想致し候。帽子を眉深《まぶか》に、両手を衣嚢《かくし》に突込《つきこ》みて歩み行く男は、皆賭博に失敗して自殺を空想しつゝ行くものゝ如く見え、闇より出でゝ、闇の中《うち》に馳過《はせすぐ》る馬車あれば、其の中《うち》には必ず不義の恋、道ならぬ交際《まじはり》の潜めるが如き心地して、胸は訳もなく波立ち、心|頻《しきり》に焦立つ折から、遥か彼方《あなた》に、ホテルやサルーンの燈火、更けたる夜《よ》を心得顔に赤々と輝くを望み見れば、浮世の限りの楽《たのし》みは此処にのみ宿ると云はぬばかり。入りつ出でつ揺《ゆらめ》く男女の影は放蕩の花園に戯《たはむ》れ舞ふ蝶に似て、折々流れ来《きた》る其等の人の笑ふ声語る声は、云難《いひがた》き甘味《かんみ》を含む誘惑の音楽に候はずや。
 恐しき「定め」の時にて候。この時この瞬間、宛《さなが》ら風の如き裾の音高く、化粧の香《か》を夜気《やき》に放ち、忽如《こつじよ》として街頭の火影《ほかげ》に立現《たちあらは》るゝ女は、これ夜《よる》の魂、罪過と醜悪との化身《けしん》に候。少女マルグリツトの家の戸口に悪魔《メフイスト》が呼出《よびいだ》す魔界の天使に御座候。彼女等は夜《よる》に彷徨《さまよ》ふ若き男の過去未来を通じて、その運命、その感想の凡《すべ》てを洞察し尽せる神女に候。
 されば男は此処にその呼び止《とむ》る声を聞きその寄添《よりそ》ふ姿を見る時は、過ぎし昔の前兆を今又目前に見る心地して、その宿命に満足し、犠牲に甘んじて、冷き汚辱《をじよく》の手を握り申侯。
 余は劇場を出でゝより更け渡りたるブロードウヱーを歩み/\て、かのマヂソン広小路に石柱の如く聳立《そばだ》つ二十余階の建物をば夢の楼閣と見て過ぎ、やがて行手にユニオン広小路とも覚しき樹の繁り、その間を漏るゝ燈火を望み候。近《ちかづ》けば木蔭の噴水より水の滴る響《ひゞき》、静《しづけ》き夜に恰も人の啜《すゝ》り泣くが如くなるを聞き付け、其のほとりのベンチに腰掛け、水の面に燈影の動き砕くるさまを見入りて、独り湧出る空想に耽り候。
 余《よ》は何者か、余《われ》に近く歩《あゆ》み寄る跫音《あしおと》、続いて何事か囁く声を聞き侯ふが、少時《しばらく》にして再び歩み出《いだ》せば、……あゝ何処《いづこ》にて捕へられしや。余《よ》はかの夜《よる》の悪女と相並びて、手を引《ひか》るゝまゝに、見も如らぬ裏街を歩み居り候。
 見廻せば、両側に立続く長屋は塵《ちり》に汚《まみ》れし赤煉瓦の色黒くなりて、扉傾きし窓々には灯《ひ》も見えず、低き石段を前にしたる戸口の中《うち》は、闇立ち迷ひて、其の縁下《ペーズメント》よりは悪臭を帯びたる湿気流れ出でて人の鼻を撲《う》つ。女は突然|立止《たちとゞ》まりて、近くの街燈をたよりに、少時《しばし》余が風采《みなり》を打眺め候ふが、忽ち紅《べに》したる唇より白き歯を見せて微笑み候。
 余は覚えず身を顫《ふる》はし申候。而も取られし手を振払ひて、逃去《のがれさ》る決断もなく、否、寧ろ進んで闇の中《うち》に陥《おちい》りたき熱望に駆られ候。
 不思議なるは悪に対する趣味にて侯。何故《なにゆゑ》に禁じられたる果実は味|美《うるは》しく候ふや。禁制は甘味《かんみ》を添へ、破戒は香気を増す。谷川の流れを見給へ。岩石なければ水は激せず、良心なく、道念なければ、人は罪の冒険、悪の楽しみを見出し得ず候。
 余は導かるゝ儘に闇の戸口に入り、闇の梯子段を上《のぼ》り行き候。梯子段には敷物なければ、恰も氷を踏砕《ふみくだ》くが如き物音、人気《ひとけ》なき家中《かちゆう》に響き、何処《いづこ》より湧き出《いづ》るとも知れぬ冷き湿気、死人の髪の如くに、余が襟元を撫で申候。
 二階三階、遂に五階目かとも覚しき処まで上り行き候ふ時、女はかち[#「かち」に傍点]/\と鍵の音させて、戸を開き、余をその中《うち》に突き入れ候。
 濃き闇は此処をも立罩《たてこ》め候ふが、女の点ずる瓦斯の灯《ひ》に、秘密の雲破れて、余の目の前には忽如として破れたる長椅子、古びし寝台《ねだい》、曇りし姿見、水|溜《たま》れる手洗鉢《てあらひばち》なぞ、種々《さま/″\》の家具雑然たる一室の様、魔術の如くに現《あらは》れ候。室《へや》は屋根裏と覚しく、天井低くして壁は黒ずみたれど、彼方《かなた》此方《こなた》に脱捨《ぬぎす》てたる汚れし寝衣《ねまき》、股引《もゝひき》、古足袋《ふるたび》なぞに、思ひしよりは居心《ゐごゝろ》好き住家《すみか》と見え候。されど、そは諸君が寝藁《ねわら》打乱れたる犬小屋、若しくは糞《ふん》にまみれし鳥の巣を覗見《のぞきみ》たる時感じ給ふ心地好さに御座候。
 眺め廻す中《うち》に、女は早や帽子を脱《と》り、上衣《うはぎ》を脱ぎ、白く短き下衣《シユミーズ》一ツになりて、余が傍《かたへ》なる椅子に腰掛け、巻煙草を喫し始め候。
 余は深く腕を組みて、考古学者が沙漠に立つ埃及《エヂプト》の怪像《スフインクス》を打仰ぐが如く、黙然として其の姿を打目戍《うちまも》り候。
 見よ。彼女が靴足袋《くつたび》したる両足をば膝の上までも現《あらは》し、其の片足を片膝の上に組み載せ、下衣《したぎ》の胸ひろく、乳を見せたる半身を後《うしろ》に反《そら》し、あらはなる腕を上げて両手に後頭部を支へ、顔を仰向けて煙を天井に吹く様《さま》。これ神を恐れず、人を恐れず、諸有《あらゆ》る世の美徳を罵り尽せし、惨酷なる、将《は》た、勇敢なる、反抗と汚辱との石像に非ずして何ぞ。彼女が白粉と紅《べに》と入毛《いれげ》と擬造《まがひ》の宝石とを以て、破壊の「時」と戦へる其の面《おもて》は孤城落日の悲壮美を示さずや。其《そ》が重き瞼の下に、眠れりとも見えず、覚めたりとも見えぬ眼の色は、瘴煙毒霧《しやうえんどくむ》を吐く大沢《だいたく》の水の面にも譬《たと》ふべきか。デカダンス派の父なるボードレールが、

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〔Quand vers toi mes de'sirs partent en caravan,〕
〔Tes yeux sont la citerne ou` boivent mes ennuis.〕
[#ここで字下げ終わり]

「わが欲情、隊商《カラバン》の如く汝《な》が方《かた》に向ふ時、汝《なれ》が眼は病める我が疲れし心を潤す用水の水なり。」と云ひ、又、

[#ここから2字下げ]
〔Tes yeux, ou` rien ne 
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