ような心持になる。
四、五年来、わたくしが郊外を散行するのは、かつて『日和下駄《ひよりげた》』の一書を著《あらわ》した時のように、市街河川の美観を論述するのでもなく、また寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢《はかな》い空想に身を打沈めたいためである。平生《へいぜい》胸底に往来している感想に能《よ》く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉《いしゃ》にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだというより外はない。
この目的のためには市中において放水路の無人境ほど適当した処はない。絶間なき秩父《ちちぶ》おろしに草も木も一方に傾き倒れている戸田橋《とだばし》の両岸の如きは、放水路の風景の中その最《もっとも》荒凉たるものであろう。
戸田橋から水流に従って北方の堤を行くと、一、二里にして新荒川橋に達する。堤の下の河原に朱塗の寺院が欝然たる松林の間に、青い銅瓦《どうがわら》の屋根を聳《そびや》かしている。この処は、北は川口町《かわぐちまち》、南は赤羽《あかばね》の町が近いので、橋上には自転車と自動車の往復が烈しく、わたくしの散策には適していない。放水路の水と荒川の本流とは新荒川橋下の水門を境《さかい》にして、各堤防を異にし、あるいは遠くなりあるいは近くなりして共に東に向って流れ、江北橋の南に至って再び接近している。
堤の南は尾久《おぐ》から田端《たばた》につづく陋巷《ろうこう》であるが、北岸の堤に沿うては隴畝《ろうほ》と水田が残っていて、茅葺《かやぶき》の農家や、生垣《いけがき》のうつくしい古寺が、竹藪や雑木林《ぞうきばやし》の間に散在している。梅や桃の花がいかにも田舎らしい趣を失わず、能くあたりの風景に調和して見えるのはこのあたりである。小笹に蔽われた道端に、幹の裂けた桜の老樹が二、三株ずつ離れ離れに立っている。わたくしが或日偶然六阿弥陀詣の旧道の一部に行当って、たしかにそれと心付いたのは、この枯れかかった桜の樹齢を考えた後、静に曾遊《そうゆう》の記憶を呼返した故であった。
江北橋の北詰には川口と北千住の間を往復する乗合自動車と、また西新井《にしあらい》の大師《だいし》と王子《おうじ》の間を往復する乗合自動車とが互に行き交《ちが》っている。六阿弥陀と大師堂へ行く道しるべの古い石が残っている。葭簀張《よしずば》りの休茶屋もある。千住へ行く乗合自動車は北側の堤防の二段になった下なる道を走って行く。道は時々低く堤を下って、用水の流に沿い、また農家の垣外を過ぎて旧道に合している。ところどころ桜の若木が植え付けられている。やがて西新井橋に近づくに従って、旧道は再び放水路堤防の道と合し、橋際に至って全くその所在を失ってしまう。
西新井橋の人通りは早くも千住大橋の雑沓を予想させる。放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋《ほりきりばし》に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以前には橋がなかったのであろうか。あるいは掛替えられたのであろうか。ここに水門が築かれて、放水路の水は、短い堀割によって隅田川に通じている。
わたくしはこの堀割が綾瀬川《あやせがわ》の名残りではないかと思っている。堀切橋の東岸には菖蒲園《しょうぶえん》の広告が立っているからである。下流には近く四木《よつぎ》の橋が見え、荷車や自動車の往復は橋ごとに烈しくなる。四木橋からその下流にかけられた小松川橋に至る間に、中川の旧流が二分せられ、その一は放水路に入り、更に西岸の堤防から外に出ているが、その一は堤を異にして放水路と並行して南下しているのに出逢う。
市川の町へ行く汽車の鉄橋を越すと、小松川の橋は目の前に横たわっている。小松川の橋に来て、その欄干に倚《よ》ると、船堀の橋と行徳川の水門の塔が見える。この水門の景は既にこれをしるした。水門から最終の葛西橋までその距離は一里を越えてはいないであろう。
[#地から2字上げ]昭和十一年四月
底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
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