賃銭の割引広告が貼り出される。
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放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻《ろてき》と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に逢わぬことである。平素|市中《しちゅう》の百貨店や停車場《ていしゃじょう》などで、疲れもせず我先きにと先を争っている喧騒な優越人種に逢わぬことである。夏になると、水泳場また貸ボート屋が建てられる処もあるが、しかしそれは橋のかかっているあたりに限られ、橋に遠い堤防には祭日の午後といえども、滅多《めった》に散歩の人影なく、唯名も知れぬ野禽《やきん》の声を聞くばかりである。
堤防は四ツ木の辺から下流になると、両岸に各一条、中間にまた一条、合せて三条ある。わたくしはいつもこの中間の堤防を歩く。
中間の堤防はその左右ともに水が流れていて、遠く両岸の町や工場もかくれて見えず、橋の影も日の暮れかかるころには朦朧《もうろう》とした水蒸気に包まれてしまうので、ここに杖を曳く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫音《あしおと》を聞くばかり。いかにも世の中から捨てられた成れの果《はて》だという
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