人は意気揚々として九段坂を下り車を北廓に飛した。
 腕車《わんしゃ》と肩輿《けんよ》と物は既に異っているが、昔も今も、放蕩の子のなすところに変りはない。蕩子のその醜行を蔽うに詩文の美を借来らん事を欲するのも古今また相同じである。揚州十年の痴夢《ちむ》より一覚する時、贏《か》ち得るものは青楼《せいろう》薄倖の名より他には何物もない。病床の談話はたまたま樊川《はんせん》の詩を言うに及んでここに尽きた。
 縁側から上って来た鶏は人の追わざるに再び庭に下りて頻《しきり》に友を呼んでいる。日暮の餌をあさる鶏には、菓子鉢の菓子は甘すぎたのであろう。
 唖々子は既にこの世にいない。その俳句文章には誦《しょう》すべきものが尠《すくな》くない。子は別に不願醒客と号した。白氏の自ら酔吟先生といったのに倣《なら》ったのであろうか。子の著『猿論語』、『酒行脚《さけあんぎゃ》』、『裏店《うらだな》列伝』、『烏牙庵漫筆《うがあんまんぴつ》』、皆酔中に筆を駆《か》ったものである。
 わたしは子の遺稿を再読して世にこれを紹介する機会のあらんことを望んでいる。
[#地から2字上げ]大正十二年七月稿



底本:「荷風随
前へ 次へ
全12ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング