梅雨晴
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)渋江抽斎《しぶえちゅうさい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一子|優善《やすよし》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]
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 森先生の渋江抽斎《しぶえちゅうさい》の伝を読んで、抽斎の一子|優善《やすよし》なるものがその友と相謀《あいはか》って父の蔵書を持ち出し、酒色の資となす記事に及んだ時、わたしは自らわが過去を顧みて慚悔《ざんかい》の念に堪《た》えなかった。
 天保の世に抽斎の子のなした所は、明治の末にわたしの為したところとよく似ていた。抽斎の子は飛蝶《ひちょう》と名乗り寄席《よせ》の高座に上って身振|声色《こわいろ》をつかい、また大川に舟を浮べて影絵芝居を演じた。わたしは朝寝坊夢楽という落語家の弟子となり夢之助と名乗って前座《ぜんざ》をつとめ、毎月師匠の持席《もちせき》の変るごとに、引幕を萌黄《もえぎ》の大風呂敷《おおぶろしき》に包んで背負って歩いた。明治三十一、二年の頃のことなので、まだ電車はなかった。
 当時のわたしを知っているものは井上唖々《いのうえああ》子ばかりである。唖々子は今年六月のはじめ突然病に伏して、七月十一日の朝四十六歳を以て世を謝した。
 二十年前わたしの唖々子における関係は、あたかも抽斎の子のその友某におけると同じであった。
 六月下旬の或日、めずらしく晴れた梅雨の空には、風も凉しく吹き通っていたのを幸《さいわい》、わたしは唖々子の病を東大久保|西向天神《にしむきてんじん》の傍なるその※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》に問うた。枕元に有朋堂《ゆうほうどう》文庫本の『先哲叢談』が投げ出されてあった。唖々子は英語の外に独逸語《ドイツご》にも通じていたが、晩年には専《もっぱら》漢文の書にのみ親しみ、現時文壇の新作等には見向きだもせず、常にその言文一致の陋《ろう》なることを憤《いきどお》っていた。
 わたしは抽斎伝の興味を説き、伝中に現れ来る蕩子《とうし》のわれらがむかしに似ていることを語った。唖々子は既に形容《けいよう》枯槁《ここう》して一カ月前に見た時とは別人のようになっていたが、しかし談話はなお平生《へいぜい》と変りがなかったので、夏の夕陽《ゆうひ》の枕元にさし込んで来る頃まで倶《とも》に旧事を談じ合った。内子《ないし》はわれわれの談話の奇怪に渉《わた》るのを知ってか後堂にかくれて姿を見せない。庭に飼ってある鶏が一羽|縁先《えんさき》から病室へ上って来て菓子鉢の中の菓子を啄《ついば》みかけたが、二人はそんな事にはかまわず話をつづけた。
 わたしが昼間は外国語学校で支那語を学び、夜はないしょで寄席へ通う頃、唖々子は第一高等学校の第一部第二年生で、既に初の一カ年を校内の寄宿舎に送った後、飯田町《いいだまち》三丁目|黐《もち》の木|坂《ざか》下《した》向側の先考|如苞翁《じょほうおう》の家から毎日のように一番町なるわたしの家へ遊びに来た。ある晩、寄席が休みであったことから考えると、月の晦日《みそか》であったに相違ない。わたしは夕飯をすましてから唖々子を訪《と》おうと九段《くだん》の坂を燈明台《とうみょうだい》の下あたりまで降りて行くと、下から大きなものを背負って息を切らして上って来る一人の男がある。電車の通らない頃の九段坂は今よりも嶮《けわ》しく、暗かったが、片側の人家の灯で、大きなものを背負っている男の唖々子であることは、頤《あご》の突出たのと肩の聳《そび》えたのと、眼鏡をかけているのとで、すぐに見定められた。
「おい、君、何を背負っているんだ。」と声をかけると、唖々子は即座に口をきく事のできなかったほどうろたえた。横町《よこちょう》か路地でもあったら背負った物を置き捨てに逃げ出したかも知れない。
「君、引越しでもするのか。」
 この声の誰であるかを聞きわけて、唖々子は初めて安心したらしく、砂利の上に荷物を下したが、忽《たちまち》命令するような調子で、
「手伝いたまえ。ばかに重い。」
「何だ。」
「質屋だ。盗み出した。」
「そうか。えらい。」とわたしは手を拍《う》った。唖々子は高等学校に入ってから夙《はや》くも強酒を誇っていたが、しかしわたしともう一人島田という旧友との勧める悪事にはなかなか加担しなかった。然るにその夜突然この快挙に出でたのを見て、わたしは覚えず称揚の声を禁じ得なかったのだ。
「何の本だ。」ときくと、
「『通鑑《つがん》』だ。」と唖々子は答えた。
「『通鑑』は『綱目』だろう。」
「そうさ。『綱目』でもやっ
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