ね》の漏《も》るるを聞きつけて、私は西洋人の生活をば限りもなく不思議に思ったことがあった。

 近頃日和下駄を曳摺《ひきず》って散歩する中《うち》、私の目についた崖は芝二本榎《しばにほんえのき》なる高野山《こうやさん》の裏手または伊皿子台《いさらごだい》から海を見るあたり一帯の崖である。二本榎高野山の向側《むこうがわ》なる上行寺《じょうぎょうじ》は、其角《きかく》の墓ある故に人の知る処である。私は本堂の立っている崖の上から摺鉢《すりばち》の底のようなこの上行寺の墓地全体を覗《のぞ》き見る有様をば、其角の墓|諸共《もろとも》に忘れがたく思っている。白金《しろかね》の古刹《こさつ》瑞聖寺《ずいしょうじ》の裏手も私には幾度《いくたび》か杖を曳くに足るべき頗《すこぶ》る幽邃《ゆうすい》なる崖をなしている。
 麻布赤坂《あざぶあかさか》にも芝同様崖が沢山ある。山の手に生れて山の手に育った私は、常にかの軽快|瀟洒《しょうしゃ》なる船と橋と河岸《かし》の眺《ながめ》を専有する下町《したまち》を羨むの余り、この崖と坂との佶倔《きっくつ》なる風景を以て、大《おおい》に山の手の誇とするのである。『隅田川両岸一覧』に川筋の風景をのみ描き出した北斎《ほくさい》も、更に足曳《あしびき》の山の手のために、『山復山《やままたやま》』三巻を描いたではないか。
[#改ページ]

     第十 坂

 前回記する処の崖といささか重複《ちょうふく》する嫌いがあるが、市中《しちゅう》の坂について少しく述べたい。坂は即ち平地《へいち》に生じた波瀾である。平坦なる大通《おおどおり》は歩いて滑らず躓《つまず》かず、車を走らせて安全無事、荷物を運ばせて賃銀安しといえども、無聊《ぶりょう》に苦しむ閑人《かんじん》の散歩には余りに単調に過《すぎ》る。けだし東京市中における眺望の一直線をなす美観は、橋あり舟ある運河の岸においてのみこれを看得《みう》るが、銀座日本橋の大通の如き平坦なる街路の眺望に至っては、われら不幸にしていまだ泰西《たいせい》の都市において経験したような感興を催さない。西洋の都市においても私は紐育《ニューヨーク》の平坦なる Fifth Avenue よりコロンビヤの高台に上る石級《せききゅう》を好み、巴里《パリー》の大通《ブールヴァール》よりも遥《はるか》にモンマルトルの高台を愛した。里昂《リオン》にあってはクロワルッスの坂道から、手摺《てず》れた古い石の欄干を越えて眼下にソオンの河岸通《かしどおり》を見下《みおろ》しながら歩いた夏の黄昏《たそがれ》をば今だに忘れ得ない。あの景色を思浮べる度々、私は仏蘭西《フランス》の都会は何処へ行ってもどうしてあのように美しいのであろう。どうしてあのように軟く人の空想を刺戟するように出来ているのであろうと、相も変らず遣瀬《やるせ》なき追憶の夢にのみ打沈められるのである。
 その頃私は年なお三十に至らず、孤身|飄然《ひょうぜん》、異郷にあって更に孤客となるの怨《うらみ》なく、到る処の青山《せいざん》これ墳墓地《ふんぼのち》ともいいたいほど意気|頗《すこぶる》豪なるところがあったが今その十年の昔と、鬢髪《びんぱつ》いまだ幸《さいわい》にして霜を戴かざれど精魂漸く衰え聖代の世に男一匹の身を持てあぐみ為す事もなき苦しさに、江戸絵図を懐中《ふところ》に日和下駄《ひよりげた》曳摺《ひきず》って、既に狂歌俳句に読古《よみふる》された江戸名所の跡を弔《とむら》い歩む感慨とを比較すれば、全くわれながら一滴の涙なきを得ない。さりながら、かの端唄《はうた》の文句にも、色気ないとて苦にせまい賤《しず》が伏家《ふせや》に月もさす。徒《いたずら》に悲み憤《いきどお》って身を破るが如きはけだし賢人のなさざる処。われらが住む東京の都市いかに醜く汚しというとも、ここに住みここに朝夕《ちょうせき》を送るかぎり、醜き中《うち》にも幾分の美を捜り汚き中にもまた何かの趣を見出し、以て気は心とやら、無理やりにも少しは居心地住心地のよいように自《みずか》ら思いなす処がなければならぬ。これ元来が主意というものなき我が日和下駄の散歩の聊《いささ》か以て主意とする処ではないか。
 そもそも東京市はその面積と人口においては既に世界屈指の大都《だいと》である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って遥《はるか》に市中を眺望する時、誰《た》が目にも容易《たやす》く感じ得らるる処である。この都に生れ育ちて四時の風物何一つ珍しい事もないまでに馴れ過ぎてしまったわれらさえ、折あって九段坂《くだんざか》、三田聖坂《みたひじりざか》、あるいは霞《かすみ》ヶ|関《せき》を昇降する時には覚えずその眺望の大なるに歩みを留《とど》めるではないか。東京市は坂の上の眺望によって最もよくその偉大を示すというべきである。古来その眺望よりして最も名高きは赤坂霊南坂上《あかさかれいなんざかうえ》より芝|西《にし》の久保《くぼ》へ下りる江戸見坂《えどみざか》である。愛宕山《あたごやま》を前にして日本橋京橋から丸の内を一目《ひとめ》に望む事が出来る。芝|伊皿子台上《いさらごだいうえ》の汐見坂《しおみざか》も、天然の地形と距離との宜《よろ》しきがために品川の御台場《おだいば》依然として昔の名所絵に見る通り道行く人の鼻先に浮べる有様、これに因《よ》ってこれを観《み》れば古来江戸名所に数えらるる地点|悉《ことごと》く名ばかりの名所でない事を証するに足りる。
 今市中の坂にして眺望の佳《か》なるものを挙げんか。神田お茶の水の昌平坂《しょうへいざか》は駿河台岩崎邸門前《するがだいいわさきていもんぜん》の坂と同じく万世橋《まんせいばし》を眼の下に神田川《かんだがわ》を眺むるによろしく、皀角坂《さいかちざか》[#ここから割り注]水道橋内駿河台西方[#ここで割り注終わり]は牛込麹町の高台並びに富嶽《ふがく》を望ましめ、飯田町《いいだまち》の二合半坂《にごうはんざか》は外濠《そとぼり》を越え江戸川の流を隔てて小石川|牛天神《うしてんじん》の森を眺めさせる。丁度この見晴しと相対するものは則《すなわ》ち小石川|伝通院《でんづういん》前の安藤坂《あんどうざか》で、それと並行する金剛寺坂《こんごうじざか》荒木坂《あらきざか》服部坂《はっとりざか》大日坂《だいにちざか》などは皆|斉《ひと》しく小石川より牛込|赤城番町辺《あかぎばんちょうへん》を見渡すによい。しかしてこれらの坂の眺望にして最も絵画的なるは紺色なす秋の夕靄《ゆうもや》の中《うち》より人家の灯《ひ》のちらつく頃、または高台の樹木の一斉に新緑に粧《よそ》わるる初夏《しょか》晴天の日である。もしそれ明月|皎々《こうこう》たる夜、牛込神楽坂《うしごめかぐらざか》浄瑠璃坂《じょうるりざか》左内坂《さないざか》また逢坂《おうさか》なぞのほとりに佇《たたず》んで御濠《おほり》の土手のつづく限り老松の婆娑《ばさ》たる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい。
 坂はかくの如く眺望によりて一段の趣を添うといえども、さりとて全く眺望なきものも強《あなが》ち捨て去るには及ばない。心あってこれを捜《さぐ》らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。例えば四谷愛住町《よつやあいずみちょう》の暗闇坂《くらやみざか》、麻布二之橋向《あざぶにのはしむこう》の日向坂《ひゅうがざか》の如きを見よ。といった処でこれらの坂はその近所に住む人の外はちょっとその名さえ知らぬほどな極めて平々凡々たるものである。しかし暗闇坂は車の上《のぼ》らぬほど急な曲った坂でその片側は全長寺《ぜんちょうじ》の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮《さえぎ》り、乱塔婆《らんとうば》に雑草|生茂《おいしげ》る有様何となく物凄い坂である。二の橋の日向坂はその麓を流れる新堀川《しんほりかわ》の濁水《だくすい》とそれに架《かか》った小橋《こばし》と、斜《ななめ》に坂を蔽う一株《ひとかぶ》の榎《えのき》との配合が自《おのずか》ら絵になるように甚だ面白く出来ている。振袖火事《ふりそでかじ》で有名な本郷本妙寺《ほんごうほんみょうじ》向側の坂もまたその麓を流るる下水と小橋とのために私の記憶する処である。赤坂喰違《あかさかくいちがい》より麹町清水谷《こうじまちしみずだに》へ下《くだ》る急な坂、また上二番町辺樹木谷《かみにばんちょうへんじゅもくだに》へ下《おり》る坂の如きは下弦の月鎌の如く樹頭に懸る冬の夜《よ》、広大なるこの辺《へん》の屋敷屋敷の犬の遠吠え聞ゆる折なぞ市中とは思えぬほどのさびしさである。坂はまた土地の傾斜に添うて立つ家屋塀樹木等の見通しによって大《おおい》に眼界を美ならしむる。則ち旧|加州侯《かしゅうこう》の練塀《ねりべい》立ちつづく本郷の暗闇坂の如き、麻布長伝寺《あざぶちょうでんじ》の練塀と赤門見ゆる一本松の坂の如きはその実例である。
 私はまた坂の中《うち》で神田明神《かんだみょうじん》の裏手なる本郷の妻恋坂《つまごいざか》、湯島天神裏花園町《ゆしまてんじんうらはなぞのちょう》の坂、また少しく辺鄙《へんぴ》なるを厭《いと》わずば白金清正公《しろかねせいしょうこう》のほとりの坂、さては牛込築土明神裏手《うしごめつくどみょうじんうらて》の坂、赤城《あかぎ》明神裏門より小石川|改代町《かいたいまち》へ下りる急な坂の如く神社の裏手にある坂をば何となく特徴あるように思い、通る度《たび》ごとに物珍らしくその辺《へん》を眺めるのである。坂になった土地の傾斜は境内《けいだい》の鳥居や銀杏《いちょう》の大木や拝殿の屋根、玉垣なぞをば、或時は人家の屋根の上、或時は路地の突当りなぞ思いも掛けぬ物の間からいろいろに変化さして見せる。私はまたこういう静な坂の中途に小じんまりした貸家を見付ると用もないのに必ず立止っては仔細《しさい》らしく貼札《はりふだ》を読む。何故《なぜ》というに神社の境内に近く佗住居《わびずまい》して読書に倦《う》み苦作につかれた折|窃《そっ》と着のみ着のまま羽織《はおり》も引掛《ひっか》けず我が家《や》の庭のように静な裏手から人なき境内に歩入《あゆみい》って、鳩の飛ぶのを眺めたり額堂《がくどう》の絵馬《えま》を見たりしたならば、何思うともなく唯茫然として、容易《たやす》くこの堪えがたき時間を消費する事が出来はせまいかと考えるからである。
 東京の坂の中《うち》にはまた坂と坂とが谷をなす窪地《くぼち》を間にして向合《むかいあわせ》に突立っている処がある。前章市内の閑地《あきち》を記したる条《じょう》に述べた鮫《さめ》ヶ|橋《はし》の如き、即ちその前後には寺町《てらまち》と須賀町《すがちょう》の坂が向合いになっている。また小石川|茗荷谷《みょうがだに》にも両方の高地《こうち》が坂になっている。小石川|柳町《やなぎちょう》には一方に本郷より下《おり》る坂あり、一方には小石川より下る坂があって、互に対時《たいじ》している。こういう処は地勢が切迫して坂と坂との差向いが急激に接近していれば、景色はいよいよ面白く、市中に偶然|温泉場《おんせんば》の街が出来たのかと思わせるような処さえある。
 市《いち》ヶ|谷《や》谷町《たにまち》から仲之町《なかのちょう》へ上《のぼ》る間道に古びた石段の坂がある。念仏坂《ねんぶつざか》という。麻布飯倉《あざぶいいくら》のほとりにも同じような石段の坂が立っている。雁木坂《がんぎざか》と呼ぶ。これらの石級《せききゅう》磴道《とうどう》はどうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも危《あやう》くコツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心|窃《ひそか》に念じているのである。
[#改ページ]

     第十一 夕陽 附富士眺望

 東都の西郊|目黒《めぐろ》に夕日《ゆうひ》ヶ|岡《おか》というがあり、大久保《おおくぼ》に西向天神《にしむきてん
前へ 次へ
全14ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング