事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋《しょしゅう》の夕暮であった。先生は大方御食事中でもあったのか、私は取次の人に案内されたまま暫《しばら》くの間唯一人この観潮楼の上に取残された。楼はたしか八畳に六畳の二間《ふたま》かと記憶している。一間《いっけん》の床《とこ》には何かいわれのあるらしい雷《らい》という一字を石摺《いしずり》にした大幅《たいふく》がかけてあって、その下には古い支那の陶器と想像せられる大きな六角の花瓶《かへい》が、花一輪さしてないために、かえってこの上もなく厳格にまた冷静に見えた。座敷中にはこの床の間の軸と花瓶の外《ほか》は全く何一つ置いてないのである。額もなければ置物もない。おそるおそる四枚立の襖《ふすま》の明放《あけはな》してある次の間《ま》を窺《うかが》うと、中央《まんなか》に机が一脚置いてあったが、それさえいわば台のようなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、抽出《ひきだし》もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には硯《すずり》もインキ壺も紙も筆も置いてはない。しかしその後《うしろ》に立てた六枚屏風《ろくまいびょうぶ》の裾《すそ》からは、紐《ひも》で束《たば》ねた西洋の新聞か雑誌のようなものの片端《かたはし》が見えたので、私はそっと首を延して差覗《さしのぞ》くと、いずれも大部のものと思われる種々なる洋書が座敷の壁際《かべぎわ》に高く積重ねてあるらしい様子であった。世間には往々読まざる書物をれいれいと殊更《ことさら》人の見る処に飾立《かざりた》てて置く人さえあるのに、これはまた何という一風変った癇癖《かんぺき》であろう。私は『柵草紙《しがらみぞうし》』以来の先生の文学とその性行について、何とはなく沈重《ちんちょう》に考え始めようとした。あたかもその時である。一際《ひときわ》高く漂《ただよ》い来る木犀《もくせい》の匂と共に、上野の鐘声《しょうせい》は残暑を払う凉しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ間《ま》の私を驚かしたのである。
私は振返って音のする方を眺めた。千駄木《せんだぎ》の崖上《がけうえ》から見る彼《か》の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄《ぼあい》に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火《とうか》を輝《かがやか》し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏《たそがれ》の微光をば夢のように残していた。私はシャワンの描《えが》いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里《パリー》の夜景を見下《みおろ》している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
鐘の音《ね》は長い余韻の後を追掛け追掛け撞《つ》き出されるのである。その度《たび》ごとにその響の湧出《わきいづ》る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに聴澄《ききす》ましながら、わが鴎外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。
ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の梯子段《はしごだん》を上《あが》って来られたのである。金巾《かなきん》の白い襯衣《シャツ》一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを穿《は》いておられたので、何の事はない、鴎外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。
「暑い時はこれに限る。一番凉しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を勧《すす》められる。もし先生の生涯に些《いささ》かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。
この夕《ゆうべ》、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を伺《うかが》って、夜《よ》も九時過再び千駄木の崖道をば根津権現《ねづごんげん》の方へ下《お》り、不忍池《しのばずのいけ》の後《うしろ》を廻ると、ここにも聳《そび》え立つ東照宮《とうしょうぐう》の裏手一面の崖に、木《こ》の間《ま》の星を数えながらやがて広小路《ひろこうじ》の電車に乗った。
私の生れた小石川《こいしかわ》には崖が沢山あった。第一に思出すのは茗荷谷《みょうがだに》の小径《こみち》から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂《きりしたんざか》が斜《ななめ》に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向台町《こびなただいまち》の裏へと攀登《よじのぼ》っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も伐払《きりはら》われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。
まだ私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、大雨《たいう》か何かのために突然|真四角《まっしかく》な大きな横穴が現われ、何処《どこ》まで深くつづいているのか行先が分らぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。
この茗荷谷を小日向|水道町《すいどうちょう》の方へ出ると、今も往来の真中に銀杏《いちょう》の大木が立っていて、草鞋《わらじ》と炮烙《ほうろく》が沢山奉納してある小さなお宮がある。一体この水道端《すいどうばた》の通は片側に寺が幾軒となくつづいて、種々《いろいろ》の形をした棟門《むねもん》を並べている処から、今も折々私の喜んで散歩する処である。この通を行尽すと音羽《おとわ》へ曲ろうとする角に大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その頂《いただき》にちらばらと喬木《きょうぼく》が立っている。崖の草枯れ黄《きば》み、この喬木の冬枯《ふゆがれ》した梢《こずえ》に烏が群《むれ》をなして棲《とま》る時なぞは、宛然《さながら》文人画を見る趣がある。これと対して牛込《うしごめ》の方を眺めると赤城《あかぎ》の高地があり、正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなしている。目白の眺望は既に蜀山人《しょくさんじん》の東豊山《とうほうざん》十五景の狂歌にもある通り昔からの名所である。蜀山人の記に曰く
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東豊山|新長谷寺目白不動尊《しんちょうこくじめじろふどうそん》のたゝせ玉へる山は宝永の頃|再昌院法印《さいしょういんほういん》のすめる関口《せきぐち》の疏儀荘《そぎしょう》よりちかければ西南《せいなん》にかたぶく日影に杖をたてゝ時しらぬ富士の白雪《しらゆき》をながめ千町《せんちょう》の田面《たのも》のみどりになびく風に凉みてしばらくいきをのぶとぞ聞えし又|物部《もののべ》の翁《おきな》の牛込《うしごめ》にいませし頃にやありけん南郭《なんかく》春台《しゅんだい》蘭亭《らんてい》をはじめとしてこのほとりの十五景をわかちてからうたに物せし一巻《いっかん》をもみたりし事あればわが生れたる牛込の里ちかきあたりのけしきもなつかしくこゝにその題をうつして夷歌《いか》によみつゞけぬるもそのかみ大黒屋《だいこくや》ときこえし高《たか》どのには母の六十の賀の莚《むしろ》をひらきし事ありしも又|天明《てんめい》のむかしなればせき口《ぐち》の紙の漉《すき》かへし目白の滝のいとのくりことになんありける
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鶉山桜花
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昔みし田鼠《むぐら》うづらの山ざくら化《け》しての後《のち》は花もちらほら
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城門緑樹
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※[#「魚+肅」、第3水準1−94−51]《しゃちほこ》の魚《うお》木にのぼる青葉山わたりやぐらの牛込《うしごめ》の門《もん》
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渓辺流蛍
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何がしの大あたまにも似たるかなかまくら道《みち》に出戸《でと》の蛍《ほたる》は
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※[#「禾+陸のつくり」、第4水準2−82−89]田落月
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しら露のむすべる霜のをくてよりわせ田《だ》にはやく落《おつ》る月影
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平田香稲
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平《たいら》かな水田《みずた》もことし代《よ》がよくてふねのほにほがさくかとぞみる
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寺前紅楓
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てらまへて酒のませんともみぢ見《み》の地口《じぐち》まじりの顔の夕《ゆう》ばへ
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月中望嶽
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八葉《はちよう》の芙蓉《ふよう》の花を一りんのかつらの枝《えだ》にさかせてぞみる
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江村飛雪
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酒かひにゆきの中里《なかざと》ひとすぢにおもひ入江《いりえ》の江戸川《えどがわ》の末《すえ》
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長谷梵宇
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明王《みょうおう》のふるきをもつてあたらしきにゐはせ寺《でら》の法師《ほうし》たるべし
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赤城霞色
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朝夕《あさゆう》のかすみのいろも赤城《あかぎ》やまそなたのかたにむかでしらるゝ
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高田叢祠
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みあかしの高田《たかた》のかたにひかりまち穴八幡《あなはちまん》か水《みず》いなりかも
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済松鐘磬
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済松寺《さいしょうじ》祖心《そしん》の尼《あま》の若かりしむかしつけたるかねの声々《こえごえ》
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田間一路
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横にゆく蟹川《かにがわ》こえて真直《まっすぐ》に通る門田《かどた》の中《なか》ぜきの道
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巌畔酒※[#「土へん+盧」、第3水準1−15−68]
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杉のはのたてる門辺《かどべ》に目白おし羽觴《うしょう》を飛《とば》す岸の上《へ》の茶《ちゃ》や
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堰口水碓
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水車《みずぐるま》くる/\めぐりあふことは人目つゝみのせき口《ぐち》もなし
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去年の暮|巌谷四六《いわやしろく》君[#ここから割り注]小波先生令弟[#ここで割り注終わり]と図《はか》らず木曜会忘年会の席上に邂逅《かいこう》した時談話はたまたまわが『日和下駄《ひよりげた》』の事に及んだ。四六君は麹町《こうじまち》平川町《ひらかわちょう》から永田町《ながたちょう》の裏通へと上《のぼ》る処に以前は実に幽邃《ゆうすい》な崖があったと話された。小波《さざなみ》先生も四六君も共々《ともども》その頃は永田町なる故|一六《いちろく》先生の邸宅にまだ部屋住《へやずみ》の身であったのだ。丁度その時分私も一時父の住まった官舎がこの近くにあったので、憲法発布当時の淋しい麹町の昔をいろいろと追想する事ができる。一年ほど父の住《すま》っておられた某省の官宅もその庭先がやはり急な崖になっていて、物凄いばかりの竹藪《たけやぶ》であった。この竹藪には蟾蜍《ひきがえる》のいた事これまた気味悪いほどで、夏の夕《ゆうべ》まだ夜にならない中から、何十匹となく這《は》い出して来る蟾蜍に庭先は一面|大《おおき》な転太石《ごろたいし》でも敷詰めたような有様になる。この庭先の崖と相対しては、一筋の細い裏通を隔てて独逸《ドイツ》公使館の立っている高台の背後《うしろ》がやはり樹木の茂った崖になっていた。私は寒い冬の夜《よ》なぞ、日本伝来の迷信に養われた子供心に、われにもあらず幽霊や何かの事を考え出して一生懸命に痩我慢《やせがまん》しつつ真暗《まっくら》な廊下を独り厠《かわや》へ行く時、その破れた窓の障子から向《むこう》の崖なる木立《こだち》の奥深く、巍然《ぎぜん》たる西洋館の窓々に燈火の煌々《こうこう》と輝くのを見、同時にピアノの音《
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